張飛夫人の言葉を借りれば、張府は「ゆうべはいろいろありすぎ」だった。
それは張府だけの事情にとどまらず、成都の主である彼にとっても「いろいろありすぎ」の宵となった。
彼個人にとって、張将軍の突然の秘密の帰還は、どうということはない。
張将軍が何事も起こさず大人しくし続けているなどは、嵐のまえの静けさのように、かえって不気味ですらある。
ただ、益州の主としては嵐は困るため、今回の事は包み隠さず龍に明かした。
龍は既に謀った様子が明らかだったので、張府の秘密の宴へ、彼は心も足取りも軽く赴くことができた。
彼は、龍の計画の通りに、往きは孫公祐の馬車を借りて張府へ行き、車を空にして返した。
宴のあとは、供の者どもと示し合わせ、人目につかぬように張府の酒屋専用の門から出て、闇に紛れて横道に待つ馬車に乗り込み、張府に泊まらずにこうして老王府に戻ってきた。
彼はその「いろいろありすぎ」の宴から夜半に密かに帰り来たり、老王府の門をくぐって馬車を降りると、居室へ向かおうとする足を止めた。
ここを曲がれば、我が龍が愛用する古い観星臺がある。
「ちと、な。……あの上で、酔いを醒ましてゆく。……ご苦労であった。皆、もう下がって休むがよい」
と、言い置き、供の者の手から灯りをひとつ借りると、己の影ひとつと連れだって観星臺へ向かった。
「……とはいえ、のう……」
石敷きの小道をたどり、石段を登りながら、彼はひとりごち
(誰ぞ一人二人は追うて参り、下で待っておるのであろうの……済まぬことだが)
続きを心のなかで呟いた。
彼は今の地位を一人の力で築いたと思ったことは一度もない。
多くは龍の頭脳から発する妙計と、その采配に従い間違いなく実行する義兄弟や股肱の臣、そして彼を見捨てぬ民草の力で、いまここにこうして存在すると思っている。
ますますに実力を備え、大王の風格を加えてゆくというのに、彼は下々を思いやることを忘れない。
石段を登りきると、観星臺の上に出る。
言い伝えでは、秦よりも前の城壁に附属して造られた狼煙台の名残ではないかというが、定かではない。
臺は、頑丈な石の基礎に黒い磚を積み上げて築かれており、上に屋根付きの建物はない。
本来の用途がどうであったとしても、現在、成都の城内で星を見るには最適である。
とはいえ、今宵も雲が出ていて、星はほとんど見えはしないが、もとより夜空が目的ではない。
彼の巨きな両の耳は、静寂を求めていた。
張府で三弟を窘めて神妙にはじまった宴だったが、次第に関平を歓迎する席へと、雰囲気は明るく変化した。
張府では樂女を雇ったのか、酒が三巡したあとで琵琶の演奏が興を添えた。
何曲かののち、彼は巨きな耳を驚かせたのだった。
琵琶に歌声が加わった。
(これは……。新調関雎、ではないのか?) 紛れもなく、貂蝉の歌である。
歌には、若かった頃をありありと思い出させる鮮やかさがあり、心が揺れて爵を取り落としそうになった。
ちらりと張将軍の様子を窺ってみたが、張将軍は既に上機嫌になり
「好! 好!」
と、大声を張り上げているのみだった。
(この樂女……もしや貂蝉なのではないか)
張将軍が早くも酔い潰れて、苞と夫人に介抱されながら臥室へ去った後で、玉簾の向こうに座る樂女に声をかけて宴席に呼び入れ、褒美の酒を一献与えた。
しかし、その容貌を見てみても、琵琶を抱いた樂女が貂蝉であるか否か、彼は確証を得られなかった。
美貌に化粧を施し、金釵宝玉を煌かせ、華やかな衣装に身を包み、袖と裾を翻して舞い歌うていた往年の貂蝉と、薄化粧して琵琶を弾く樂女は、年齢も装束も佇まいも違いすぎた。
彼は、貂蝉の歌声を忘れた自覚はあったが、あの絶世の美女と評判だった容貌に関してすら、本当にその目鼻立ちを見ていたのか、知っていたのか。
おのれの記憶を怪しまざるを得なかった。
思えばあの頃の彼は若輩者で、末席に加わった宴に偶然に呼ばれていた貂蝉を、遠目で何度か眺めただけに過ぎぬのであった。
美しい歌姫の姿に眸を奪われはしたが、彼女と間近で言葉を交わしたことすらない。
場が持たぬのでもう一曲を所望したところ、琵琶とともに歌い上げる歌曲が大変な名曲であった。
灯火一つと共に、観星臺に一人きりである今も、巨きな両耳の奥では、噎び泣くような激しい琵琶の音色と、胸に迫る歌詞と歌声が谺している。
彼は、月も朧で星も見えぬ夜の空を仰いでは、若かった頃の記憶にしみじみと思い入っている。
(こうなると雲長への返書じゃが、さて……。書き直すべきか。……いや、むしろあのままの方が……)
心が惑い、ため息が多くなる。
夜風は冷えるというのに、葷酒しているためか、寒さは感じない。
かえって頭が冴えるように思えて心地よい。
身の回りの石積みが、ほのぼのと明るくなり、おのれの影が淡く落ちて揺れたかと思うと、石段の辺りに灯りを携えた人影が現れた。
「……わが君」
彼の巨きな耳に、翡翠が転がるような風情の聲が届いた。
その聲を聞いて、彼が今聞きたいのはその聲であったと漸く知った。
「孔明か」
姿をあらわした龍は、石の床の上に灯火を置くと
「こちらにお立ち寄りと、注進がありまして……今宵は冷え込みます。どうぞ、お召しに」
彼の裘を捧げた。
帰りの馬車に既に積んであったのだが、彼は使わなかった。
「おう」
彼は寒くはないのだが、わが龍の献策や意向にほとんど「否」を言わないので、差し出されるがままに受け取った。
ぼんやりと立ち尽くしていたためか、少し疲れ始めている己を認め、裘を打ち敷いてその上に座りたくなったが
(だが……不都合じゃの。孔明は跪座して侍ろうとしようからのぅ)
と、思い至ると、無造作に羽織って壁に倚りかかり、磚の上に肘を乗せて長い腕を休めた。
二人の足元の灯火は互いに瞬き合い、囁きを重ねるかのようである。
「……孔明よ」
「はい」
彼は、張府の方角の夜空を眺めて思い入りながら、ややあって龍に問いかけた。
「今宵な。張府へ樂女を差し向けたは、そちか?」
わが龍はいったい、どこまで見通しているのだろうかと、彼は久々に少し畏れを覚えて問いかけた。
張府には泊まらずに帰る手筈ではあったが
(じゃが、あの三弟の酒量じゃぞ。とことん呑むであろう......三更ごろになろうぞ)
と、彼は危ぶんでいた。
思えば、あの樂女が歌を披露し始めてから、三弟......張将軍の酔いが急に回った。
わが龍が
「貂蝉の歌を、見つけましてございます」
という座興を、計略の一つとして用いたのではないかとさえ思った。
かたや龍は
(わが君。この孔明は、張将軍の夫人を頼みに、将軍に一服盛ったのみでございます。……もちろん、毒消しも遣わせました)
とは、物騒すぎて、さすがに言い出せない。
たとえ、この事が彼に見破られていたとしても、である。
張将軍があまりにも早く酔い潰れたことを、彼が話題にする気配がないことから、彼は既にこれに気付き、事後承諾しているのだとも考えられる。
「わが君。孔明は只今『大酒飲みと菓子と閬中の三題』をまとめることに必死でございますれば、宴の樂まで差配するとなると、さて。……手に余る難題となりまする」
「左様か?」
彼は、わざとぬるい横目を使って龍を眺めて見せながら片頬で笑い
「そのような難題を、幾度も見事に落着させてきた臥龍先生のお手並みを、儂ぁ、何度もこの目で見ておるでのぅ」
控えめに質してみたが
「お戯れを」
と、涼しく躱される。
龍は、戦略上の必要がある場合を除いて、彼に対して滅多に偽りを言うことがないので、これは躱されたのではなく、本当なのかもしれない。
となれば、わが龍は、貂蝉の歌を成都で聴くことができるという事実を、未だ知らぬことになる。
聴かせてやりたきは山々ながら、続いたあの歌と琵琶の音色には、あまりにも人の心を激しく揺さぶり迫るものがあり、迂闊に口を滑らせて良いものか躊躇われた。
「樂女がおりましたとは。張府もご風流な」
「うム、なかなかの名手であったぞ」
(なかなか、どころか。儂は先刻……あの貂蝉に再び会うたのかもしれぬぞ。孔明)
龍が彼に言い出しかねることがあるのと同様に、彼もこのことを言い出すべきか迷う。
歌の冒頭の印象はといえば、女が想い人を戀い求め、秘めたる激情を吶喊する、ありがちな歌かと思われた。
しかし、歌が佳境に入ると、それはここ数十年あまりの天下のありように、歌姫たちの儚い半生を重ねた、おそらくは実話の叙事詩といえた。
そして、思い定めた戀しき者を心に持つ者にとっては、あまた思い当たってやまぬ心の綾を歌詞と旋律とで畳みかけられ、いつの間にか、歌い手が女であることを忘れて聞き入るほどの名曲であった。
(したが、この樂女が貂蝉であったとして……そののち、どうなるというのだ)
結局、彼は樂女の名は問わなかった。
名を問うたなら、側女として所望し連れ帰る意図がある、という誤解を招きかねぬことにも気が回った。
彼の判断は、正しかったといえる。
仮に、側女として召し出す口実で連れ帰ってみようにも、樂女の年の頃は少なくとも既に三十六は過ぎていると思われ、不自然この上なかった。
琵琶の名手として連れ帰るのは、更に不審である。
彼は常々
「孔明の琴の音は......。心が洗われる」
と、涙腺まで緩めて憚りもなく惚気ており、先代から引き続き抱えている樂団を、私的な楽しみのために召したことがない。
このような状況で、樂女を彼が連れ帰ったとなれば、成帝の寵姫の趙姐妹を連想されても無理からぬ事で
(「あちら」の方か)
( ...…...不吉な)
と、眉を顰める者も多かろう。
「あちら」とは、閨房での術に長けている魔性の女だ、という意味に他ならない。
この樂女が魔性であろうが、二喬と並ぶ美女であろうが「現実的に見て公子を産む可能性が極めて低い年齢の、民間の女」に過ぎない。
質実剛健の上に君寵は龍が占めている老王府に、樂女の身の置きどころは、あるべくもない。
彼はそこまで思い及んだわけではなかったが、とにかく名を質さなかったので、樂女が貂蝉ではない可能性も大いにある。
然りながら、あれほどの歌を歌う樂女が、天下にあと何人あり得ようかと思えば、また謎めいてくる。
磚の壁に倚りかかったまま、わが龍へ眸をめぐらせば、足元の灯火ふたつに照らされ、黒い装束と黒髪は闇に溶け込むどころか艶を帯び、白晳はいよいよ夜目にまばゆい。
(歳の劫、じゃな)
もし十年も前の宵に、人を戀う激しさを歌う音曲を聴いた後で、このうるわしい一条の龍を傍にしていたならば、怪しからぬことを考えたかもしれぬが、いまの彼は、わが龍の姿に双眸を洗われるだけで、満ち足りるに似た思いをいだいている。
彼の巨きな耳の奥で谺していた琵琶の音と歌声は、次第に音量を落とし、振動を弱めてゆく。
まるで、風雨に乱された泉の水面が、鏡のような静穏を取り戻してゆくかのように、少しずつ徐に着実に、である。
彼の心の波紋が弱まってゆくにつれて、気まぐれな秋の風に吹かれた薄雲が晴れ、月影が不意に成都を照らした。
反射的に天を仰ぎ、月に照らし出された雲の流れや、この束の間に星を見ようとするのか、白羽扇を額に翳して月光を遮り、夜空を見上げるわが龍の姿に、彼は双眸を吸われた。
微かに揺らぐ袖口から僅かに覗く腕の白さと、秋の風を含んで緩やかに靡く裾が、秀でた額の目立つ端正な横顔に薫り立つような情趣を添え、月に磨かれたが如き佇まいは、まるで一幅の絵のようである。
(……ああ。儂の、望月)
彼は、わが龍の姿を撫でるかのように見つめて眸を細め、心を盈たす。
その姿に見惚れて、視覚に注意が傾きはじめ、過剰に刺激された聴覚がいよいよ鎮まってゆく感覚に、彼は安堵を覚える。
どうやら、不意にこの観星臺に足を向けたのは、静寂を求める以外にも理由があったことに彼はようやく気付いた。
もしかしたら、わが龍が天文を観ているかもしれぬと、心のどこかで望んだがゆえに、足を向けずにいられたかったのではないか。
わが龍にまたもや見とれている彼を隠すように、天にはまた薄雲がかかりはじめ、月も翳り始める。
龍は見えにくい星空を凝視しながら
(予想外の、樂女、とは……? 何かの兆しか)
と、天意を探ろうとしたが、その答えの気配を得るよりも雲の足の方が早かった。
諦めて、扇をおろして低頭する。
「そちは……。ここでは天文に苦労するのう」
龍が何を見出さんとしていたのかは分からぬながら、彼は済まなそうに言う。
「十余年まえ、この地を推したは、他ならぬこの孔明にございますれば」
さきほどの月影がまた現れたごとくに、目の前の白い賢者の微笑は、ほの明るく見えた。
(二十) につづく