魏臣西望兩杯茶

2022/08/23

3世紀被害譚SS

 「長文兄。劉備という奴は……。実のところ、相当なワルだったのではありますまいか」

 近々、祁山へ出兵することになったため、仲達は多忙な中で時を捻出して、夜の尚書臺へやってきた。

 度重なる蜀軍との戦いについては、仲達は持久戦に持ち込み、戦わずして蜀軍の撤退を待つ巧い戦法をとっていると見て良い。

 だが、さすがに陛下の目も節穴ではない。
 いつかはこの手ぬるくも見える戦法に苦言を呈されるに違いないとは思っていたが、此度はついに決戦すべしの厳命が下ったようだった。

 こんな状況の中で、このように悠長な、戦いの行方や采配に全く関わりないことを、のんびりと問いかけてくるのが、仲達という男の非凡な所だ。

 しかも、わたしが若い頃に豫州で劉備と面識があった事を覚えていての問いかけだ。

「ワルかどうかは分からぬ。……ただ、あの当時、先々帝と孫権と天下を争うなど、生半可な善人には不可能なことではあっただろう」
「ですよね」

 岳父の荀令君がお好きだった銘柄の茶を互いに喫する。
 もう少し若ければ、邸へ伴って一献勧めたいところだが、二人とももう酒は強くない上に、仲達は今、酔ってなどいる暇はない。

「諸葛亮が兵を出し続けるのが、本当に劉備の遺志を全うするためなのだとしたら……。あれほどの賢者を、劉備は死してなお騙しおおせているとしか思えんのです」

 仲達は続きを何も言わず、茶の香りを聞いて息を吹きかけてから唇を湿しただけだったが、付き合いの長いわたしには、仲達の考えていることが伝わってきた。

(そうだとしたら、その点に限っては先々帝よりも「相当なワル」なのではないのか)

 劉豫州。
 異様な大きさの耳を持った男。
 理よりも情を重んじがちで、大局を見失いかねない愚かさがあった男。

 わたしには、あの福耳があの男の愚かさを補う何物かを授けているかもしれない予感がありはしたが、仕えようという気持ちをわたしに起こさせなかった男だった。

 あの時、劉豫州がわたしの進言を容れようと、容れるまいと、おそらく仕える気にならなかった。

 わたしが身を誤らず今に至るのは、己ひとりの考えに拠らず、なるべく故事や典例に鑑みてどう判断すべきかを重んじる考えと立場を採ってきたからだ。

 情が濃く強すぎる劉豫州のもとでは、私の考えはおそらく、足並みを乱す元凶になるのであろうと感じた。
 そして仕えたなら、何度も泥船に乗る覚悟を強いられるは明白でもあった。
 避けられる危険を避け得ず、いらぬ苦労をせねばならぬなど御免である。
   愚の骨頂だ。

 先々帝も、わたしの進言を容れないことがありはしたが、劉豫州とは全く違っておられた。天下の事に関して、非情になることがおできになった。

「諸葛亮に出兵させているのは劉備で。諸葛亮の出兵を妨げるためには、劉備に関して失望してもらうしかないのですが……」
 思案顔のまま、仲達は案の上から竹簡を取り上げると拡げて視線を落とした。

「劉備も人だ。他者の失望を招くことの一つや二つ、あろう」
「それが仲々。死者を貶すことは実に困難です。しかも、天下一の賢者の心の中の劉備です」

   仲達は竹簡の内容を眺めただけで、また巻きなおした。
   竹簡を扱う音が聞きたかったのかもしれない。
   元来、仲達は文官だ。落ち着くのだろう。

「……少なくともあの頃、劉備はそれほど優れた人物ではなかった。以後も欠点はそう変わるまいから、諸葛亮がその欠点に目を瞑れる何かがあったという所だろうかな」
「瞑るどころか」

 巻きなおした竹簡を案に戻しながら、仲達は、ずいと躙り寄って声を潜め
「おそらく、あれほどの賢者が、両眼を瞬きもせず開けていてさえ、欠点が許せたのでしょう。私に言わせれば、ベタ惚れ、だ」
 機密事項を明かすように、わたしに囁いた。

「何じゃそれは。君を、臣が、か?」
 あまりに突飛なので、わたしは笑い声をたてた。
 蜀の丞相という肩書と、ベタ惚れなどという言葉には、全く接点を感じない。奇妙ですらある。
 第一、そんな君臣があるわけがない。

「まあ、まず聞いてご覧じよ。これは、七年前の諸葛亮の上奏文なのですが……。『臣亮言,……』」

 仲達は、諸葛亮の文章を滔滔と暗誦してわたしに聞かせた。
 なかなかの名文だ。

 しかしこのようなことを長々と書いて渡しておかねばならぬとは、劉禅という人物の頼りなさや凡庸さが噂どおりであるようだと思えて来、諸葛亮に同情した。

 短い勅命を以て劉禅の意思で始まった出兵ではないということさえ、誰にでも明明白白でもある。
 なるほど、劉禅の戦ではなく、諸葛亮……いや、劉備の戦なのだ。
 
 いささか喉が乾いたが、仲達が休みもせずに朗誦するので、わたしも茶杯には手を伸ばさず、背を正して聞いていた。

 神妙に聞きながらも
(耳で聞く場合、手蹟や印の有無がわからぬのが惜しいな)
 と、雑念もよぎってしまったことを仲達には悟られぬよう、ときどき目を瞑って聴き入って見せた。

「『……今遠ク離ルル二當リテ表二臨ミ   涕泣シテ云フ所ヲ知ラズ......』」
 仲達の声がやみ、しばし沈黙が流れた。
 灯火の瞬きが、何やらいつもの尚書臺と違って見えた。

 文末に万感籠っており、さきほど仲達が言った「ベタ惚れ」がそれほど突飛には感ぜられなくもなった。

「……長いな。よく覚えたな」
「勝つため。いや。敗けぬためです」
 仲達は背から力を抜いて、茶を飲み干した。
 足りぬと見えて、湯を足して更に飲む。

 そんな仲達の姿を見ながら
(他国の臣の上奏文を、仲達からこのように聞かされる日が来ようとは、全く思い至ったことがない)
 と、妙な心地になった。

 それほど突飛ではなくなったにせよ、「ベタ惚れ」などという言葉は、わたしの口からは言い出しかね、こう言うに留めた。
「……諸葛亮を考える時、劉備抜きには考えられぬ、らしきことは分かった」
「お聞きの如く、先帝先帝先帝。……最初は劉禅への説教だと思ったが、どうも違う。……多分最後の方は、本当に泣きながら書いていますな」

 空想好きな男ではなかったはずだが、仲達は、まるで見たように断言した。
「まさか。言葉の綾に過ぎぬだろう」
「いや。泣いている。しかも八割は嬉し泣きですよ。……もう千回は読みましたので」

 仲達は親指を立て、余の指を握って掲げて見せた。
 一日一回として、三年繰り返して読んだと言いたいのか。
 執念深さと紙一重なところも、仲達の長所の一つだ。
 わたしには出来ぬことだ。 

「嬉しいのか。大魏は、そう簡単に下せぬ。楽な戦ではないと分かっていてもか」
 仲達の空想を暗に否定して見せたが、仲達は眼光を強め
「諸葛亮が、高位高官に興味がなく、かといって隠棲するつもりもないとしたら……」

 わたしから同じ答えを得たいのか、仲達は一旦言うをやめたが、わたしには嬉し泣きの理由は判じかねた。
「となれば、生きる場所は戦場のみ。諸葛亮は帷幄のうちで籌策を運らせている時が、至福なのではないかと思うのです」

「……謀士とは、そういうものか」
 好悪を言いたくはないが、徐元直を除き、謀臣には碌な者が居ない。
 我が計が中ることが面白くて仕方がないのだろう。
 諸葛亮もやはり同類かと、うんざりした。
 仲達は、わたしの脳裏に郭祭酒のおもかげが過ったことを悟っただろうか。

「その至福とは、劉備と共に戦場にあった時の追憶に、違いないのです」
 仲達が徐に発したこの言葉の意味は、謀臣がいだくであろう考えからは遥かに逸脱して聞こえ、わたしの理解は遅れた。

「……そのような君臣が……あり得るのだろうか」
 
わたしの記憶の中で、最も忠心厚く高潔で賢明なる人物、岳父・荀令君を思い出す。
 先々帝と肝胆相照らす特別な仲に見えて、魏王となった先々帝と最後は相容れぬようになり、出仕せぬようになり、心を曇らせたままご心労が嵩んで、岳父は亡くなった。

「あるのでしょう。されば、諸葛亮のこれまでの挙動や戦い方について合点のゆくところも多い」
「合点とは」
 仲達は、いつの間にか空になっていたわたしの茶杯に湯を足しながら続けた。

「謎めいて困った時は........。劉備に顔向けできぬ戦いは、諸葛亮は決してしないことを考え合わせるようにしています。わたしはこれで、何度か助かってきておるのです」

  仲達は饒舌ながら、声音は穏やかだ。
  友のことを話している調子に似ているが、それにしては不穏な言葉を呟いた。

「亡者に天下一の智者がついておる。……本来、戦ってはならぬ戦だ」
   
 わたしは戦場で采配したことがない。
 これが仲達の幻覚なのか、それとも事実なのか、全く判断できないため、息を呑み押し黙ることしかできなかった。

「……かといって、敗けるわけにもゆきませぬ……」
 熱い茶の湯気が、行き場を探すように慢慢としている向こうに、仲達の苦境が滲む。

「ときに……対陣するまで知らなかったのですが、諸葛亮は四輪車に乗っている。或いはこの点に勝機があるかもしれません」

「四輪車か? 老人のようだな。諸葛亮はお主とそう変わらぬであろう」
  意外なことであった。
  仲達の年の頃の重臣が、四輪車に乗っている姿など見たこともない。

「左様、まだ五十三」
「もしや、足が悪いのか」
「いや。全く。……つまりあれが、故意になのだとしたら……」
 
   こと諸葛亮に関して、仲達の言わんとすることが全く予測できぬ。

「故意に四輪車に乗って、利益などあるのか。……ああ、桟道か」
「桟道だけなら、その先に、丞相らしい車を待たせておけばよいでしょう」
「げにも」
   仲達が言わんとすることはもちろん、諸葛亮の意図などもっと分からぬ。分かるはずがない。

「........たとえば。このまま老齢になってゆき、本当に身体が悪くなってゆくとして。ある日突然に四輪車に乗り始めたなら『孔明も老いた』と、老いを歴然と示すことになり、ある日を境に、不利益にもなりましょう」

 わたしは、あッと思った。
 そうだとしたら、そのような先のことまで見越して今から四輪車に乗れる者など、天下にあと何人いようか。
 郭祭酒ならできたであろうか。

 ……それが諸葛亮の真意だとしたら、それを見破っている仲達というこの男も、先々のために今日から四輪車に乗るべきなら乗れるのだろう。

「あるいは、具合が悪くなる予感がある、ということもあり得るのかと。........ただし、あくまで憶測に過ぎぬのですが」
 仲達は眉を下げて含み笑った。


 何の話だったか。
「劉備は相当なワルだったのではないか」という話だったはずだ。
 大戦を前にして、何だこの、干戈にふさわしくない妙な感情は。
 
 劉豫州に、あれほどの賢者の忠誠は勿体ない。
    釣り合わぬ。

 もしあの大耳に「天下一の賢者を誑かすことができる」という天運がついていたのだとしたら、我々にとっても、相当に迷惑なワルだ。

  劉豫州は豫州のまま、諸葛亮に出会わずに儚くなっているべきだった。

 この際、やり方など問うている場合ではない。
 郭祭酒の早世が、今はじめて悔やまれる。

 ……やはり、先々帝に、何とかしていただいておくべきであった。