天府南門橋 (廿二)

2022/06/24

3世紀長編 天府南門橋

 樂女・召單の歌の聴きどころはいくつもあったが、苞にとっては、歌の中に出てきた「三人の武将」が印象的で、宴席に戻って早々、飲み直すために爵を取ろうとした手が止まった。

 

なかでも、敗走中に単騎で殿軍をつとめた武将の一喝が、大軍の足を止めた武勇伝を引き合いに、か弱き歌姫の歌声が遂には暴臣を除くに至るくだりには、一瞬、息を忘れた。

(さっきのって。親父殿のこと、……か?)

 

歌には、三人の歌姫の半生が歌われていたので、三武将はその対比に過ぎないのかもしれなかったが、わが父と伯父たちを彷彿とさせる描写があった。

 

苞は、樂女をまじまじと見た。

昨日の昼間、啼春沁で見た樂女とは衣装も琵琶も違ったので、樂女が召單だとまでは気付いていないし、関心もない。

歳の頃を知りたかったのだ。

母よりも若く見えるが、妙齢とは言い難い。

 

すると、昔日にどこかで、張飛将軍の武勇を伝え聞いていて、しかもそれを覚えており、いつからかは知らぬが、後年に至ってもこうして、成都で歌い続けているというわけであろうか。

 

張飛将軍の「昔」を知っているらしき樂女の熱唱を目の当たりにした苞は

(親父。……凄えナ……)

と、素直に感じ入る。

先ほど酔い潰れ、母と共に左右から扶けて、ようやく寝台に転がしてきた酔漢の寝姿が、急に「それは仮の姿」とでも言うべき物語性を帯びてくる。

 

関平も、「長髯の武将」に歌姫たちが助けられたくだりを聴き、その武将の容姿が義父によく似ているので

(もしかして、義父上?)

あの強面の関将軍が、美しい三人の歌姫と関りがあったというのは、事実と考えるべきか、事実をもとにした脚色か、それとも架空の事か、と心の片隅に思い描き、記憶の限りにおいては関将軍が正夫人を持ったことがないという事実が頭を掠める。

而してその雑念も、畳みかけるような力強い琵琶の音と歌声に圧倒され、たちまちに霧散してしまった。

 

二人の若者が聴き入る中、歌曲の中の三人の歌姫は二人に減り、耳の秀でた高徳の武将が天下に均衡をもたらしたくだりに及んだ。

 

平も苞も、おのが主君である彼が歌われているのではないのか、と、視線の端でそっと彼らの主の様子を窺ったが、宴の主賓である彼は、今まさに歌われた如き巨きな耳を左右にしながら、時おり酒を含んでは、まるで誰か他の人物の身の上を聴いているような風情である。

 

歌が終わると、彼は

「よい歌じゃった。憂国の気概もあり、志も高く、力強い。天晴じゃ」

と褒め、普段から見慣れたあの優しげな眼差しを注いで問うた。

「ありがとうございます……」

樂女・召單は琵琶を抱いて立ち上がり、膝を曲げて礼をとった。


「そちが作った歌か」

「はい」

先ほどの、雄弁で迫力ある歌声とは打って変わって、控えめで短い応えである。


「左様か。見事であった。……明日にでも褒美を遣わすほどに、張府から受け取るがよい」

と、歌の良さを賞する耳を持っていることは示しながらも、樂女の名を問いもせず、褒美は形式的に気を利かせたのみとも見える、淡い反応だった。

 

そんな彼の風情は、歌に歌い上げられた以上の事を既に成し遂げた、あるいは成しおおせつつある者のみが持つ余裕にさえ、若い二人には感ぜられた。

決して美丈夫ではないはずの彼が、急に大きく見えた気がした。

 

宴の終わりの印象が濃厚なため、宴の序盤の『新調関雎』で、彼が爵を取り落としたことを、二人はすっかり忘れている。

 

昨夕の歌曲を耳の奥に蘇らせ、その光景を思い出しながら、苞は呟く。

「……親父殿に昔のこと訊いてもサ……

『若い頃、大哥にすっかり惚れ込んじまってナ、そのまんま、気が付いたら今だ、って感じだな。ガハハッ』

で、終わりでサ。だからと言って……関二伯には畏れ多くて訊けない感じだし。主公はもう主公で、近くて遠いって感じだし……」

 

(それに、相変わらず軍師をお離しにならないからな)

関平は、心の中で苞の言葉を補足し、あの君臣の親密な様子を脳裏にえがく。

 

両人が打ち揃っている時など、注進であれば別儀であるが、とにかく、余人が立ち入るなど憚られる。

無言で視線を交わしているあの様子を近くで見てしまおうものなら、急に退出を申し出ることさえ邪魔立てに思えて、直ちに壁や柱と同化できぬものかと馬鹿なことを思いつく程である。

 

仮に、彼と二人で昔話ができるとしても、彼とふたりきりで、とはゆかない。

九分九厘、その場に龍の軍師が居ろうし、もし居合わせなければ、彼は必ず龍を呼びにいかせる。

 

主君との昔話の席に龍が同席など、若者としては気が引けて仕方がない。


幼いころは、この賢者の品の良さに涼風の如きを覚えるのみであったものの、いま若き将としてこの白い賢者にまみえると、一言一句、一挙手一投足に、おのれの未熟さが現れいでていないだろうかと心配になる。


せっかくの昔話の内容など、きっと疎かになってしまおう。


苞との会話が弾まないので、沈黙が長くなる。


(成都でも主公は……。花園で密談をなさったりしているのであろうか)

平は、襄陽の城での遠い思い出をふと思い出す。


気候のよい頃に、今よりも皺も白髪も少なかった彼が、今とあまり変わらぬ様子の軍師の手を引いては、花園で密談をすることがあった。

関平は時々、花園へ通じる小径の小さな門を守るよう、下知を受けたものだった。

苞はまだ幼かったので、襄陽でその役目を負うたことはない。


「たとえば、あと何十年かしてサ……。この天下のどこかの樂女に、俺の武勇が歌い継がれる……なんて予感、全然ない。親父たち、やっぱ凄えや……」

いつもの苞らしくなく、語尾が消え入るように頼りない。

 

「そういうのって、主公と関二伯みたいに、封兄……いや、いつか主公を継ぐ公子と、平大哥が負ってくれるんだとばかり思っててサ、……俺は、父上みたいに二人を支えられるように、とにかく武芸に励めばいいって、すごく単純に考えてたんだけどサ……昨日まで……」

 

苞は言い淀んで、また花生を齧った。

言い淀んだため、かえって、苞の言いたい事のあれこれが、大小ないまぜになって何となく関平に伝わる。

 

「父上みたいに、って。何言ってんだ俺、だぜ。……父上みたいな働きなんて、この先の俺、できる気がしねえよ。……参っちまうよ……」

苞は、大きく溜息をついて肩を落とす。

 

「堂弟」

「……平和ボケなんて、してる場合じゃねえ、ってことだよな……。とっくに」

「……そうだな」

 

歌一曲で重大なことに気付ける二人は、今どきの若者にしてはなかなかであるが、やはり若い。

 

二人が物心ついたころにはすでに、主君の傍らに臥龍と呼ばれる賢者が居た。

 

幾度も難局を躱して活路を見出すという神業をしてのける者が常に君側に侍り、その進言を概ね善しとして従う器量を主君が備えている、という奇跡が「当たり前の事」になってしまっている盲点にまでは気付いていない。

 

 

 

「俺だとて。父上のようになど……なれるわけがない」

「平大哥は違うサ」

今の今まで悄気かえっていたというのに、苞は急に背筋を伸ばし、いつもの口調に戻った。

 

「二伯にソックリだ。興なんかより、ずっと似てるゼ」

勢いあまって、苞は興に言い及んでしまったが、ハッとして口を噤み

「ごめん……。俺、言い間違えた……」

 

蔭口のようにも受け取れる内容の発言を、関平が好まないことを瞬時に思い出して項垂れた。

「苞。……お前が正直で裏表がないこと、俺はよく分かってるつもりだ」

関平はおだやかに話しかけた。

 

「でもッ、俺言い過ぎた。こういうの直したい」

苞は、張飛将軍の長所も短所も、良い意味で丁度よく受け継いでおり、関平にとっては好ましい。

そして、苞には実弟しか居ないという明快な兄弟関係があるためか、忖度や婉曲などの配慮が無用な暮らしをしているので、至極率直である。

 

 

羨ましいほどさっぱりとしている苞を前に、興の話をするときの関平は、ばつが悪いというのが本心で、心の裡を少しだけ明かした。

「……興のほうが似ている。……俺からすればな」

「え」

興のほうが関将軍に似ているなど、興の目の前であれば関平も口にしない事だ。

 

周囲の皆が

ーー養子であるのに、平公子は関将軍によく似ておられる。

という印象を持っている事実は、興が一番よく知っている。

 

それは、義を重んじる考え方や、言葉の選び方や、所作に現れているという、容姿ではない部分がよく似ていることを意味しているのである。

 

この事実があるところに、周りから父によく似ていると常々に褒められている本人の口から「興のほうが似ている」と評されるなど、興にとっては不本意で癇に障るに違いない。

 

「似ている」ことが関将軍の嫡子として最も重要視される要因であり、当然であるかのような周囲の様子や価値観にも、苛立つのだ。

 

誰かが関将軍に対して、平が良く似ていることを褒めているところに居合わせようものなら、興は口実を設けて早々に退席する。

 

古い価値観に正面から異を唱えるには、自分がまだ若輩にすぎること、平が父に似ていることは事実で覆せない事、このまま同席して、穏やかに振舞う器量が自分にはないこと、あれこれ考えて、無礼を承知であえて自分が退席することが一番良いと思ってのことなのであろう。

 

関将軍ゆずりの誇り高さこそが、興をそうさせずには居らせぬことを関平は知っている。

関平はやはり、興の理解者であると言える。

 

関平は、義父の下知であるならば、興を生涯支える役回りを喜んで負うつもりなので、先の事が決まっていないうちから、兄弟の仲を無用に拗らせたくない。

 

興は、誤解を受けやすい振舞をしてしまうため、関平に比して周囲の受けは良くはない。

加えて、実子の自分が将来に関将軍の跡目を継げば、人望のある義兄を差しおいてということになる事態に気が進まず、かといって養子の義兄の下に生涯付き従うことになるのも愉快ではないので、始終、斜に構えたような雰囲気になり、なかなか慕う者も増えないという状況である。

 

興と歳が近いはずの苞さえ、興の取っつきにくい雰囲気が苦手で、人望のある関平とばかりつるんで慕っている。それも興にとっては内心気に入らないようで、いまだに興と苞の両者は何となく余所余所しい。

 

(興と心置きなく話したのは、いつだったか)

成都への旅路を控えて、張府への土産を義母と揃えている時に、興は偶然姿を見せた。

何かと、二人を近づけたいきっかけを求める義母は

「興や。苞公子や小姐へのお土産。いい感じと思わない?」

と、明るい口調で水を向けたりした。

 

「ええ。いい感じです」

と、品定めする視線は鋭くも、鸚鵡返しの言葉を、投げやりにならずしかも関心はないという感情を示す絶妙な口調で言い、母に対しても義兄に対しても過不足のない礼を尽くした視線と拱手をして、さっさと退出していった。

 

まさか、子供の頃まで記憶を遡らねば、心温まる点景は見つからぬのかと、暗澹とした思いがよぎったが、案外に最近に思い出は存在した。

 

それは、つい昨年のことだった。

成都から、龍の書簡が荊州に届いた日の思い出だった。



(二十三)につづく

※襄陽の花園での出来事は →錦江秋風聲 です