今上の叔父と呼ばれる彼は、五十を前にしてようやく荊襄の城池を得て、晩秋のある日に巡見に出かけた。
今日の天気が良く穏やかで外出日和であることは、常に彼の傍らにある臥龍と号する天下一の賢者が既に予見しており、彼の気分をそのまま大空に描き大気に含んだが如くの好天である。
天は青々と高く、微風は涼しさを含み、初秋ごろまでうち続いた残暑が嘘のように心地よい。
簡素な服装に地味な外套を羽織り、冠ばかりは正した彼は蒼天を見上げ
「心が澄むのう」
ひろびろと掃き清められたような風情を満喫してから傍を振り返り
「……参ろうか。どうぞ先生」
廿も歳下のわが龍に対して相も変わらず師に対するが如く、馬車の方へ長い腕を伸べた。
「心が澄むのう」
ひろびろと掃き清められたような風情を満喫してから傍を振り返り
「……参ろうか。どうぞ先生」
廿も歳下のわが龍に対して相も変わらず師に対するが如く、馬車の方へ長い腕を伸べた。
「わが君がお先に」
白い賢者は、愛用の羽毛扇を横たえて袖を揃え、低頭して応じる。
白い賢者は、愛用の羽毛扇を横たえて袖を揃え、低頭して応じる。
彼に合わせて織の粗い衣を選び、綸巾ではなく白い玉の小さな冠を用いて、墨色の外套で身を包み、軽めの装いをしている。
秋の風がその袂や裾に遊び、その涼しき佇まいは眸を洗う。
「左様か」
挨拶のような譲り合いを経て、彼は踏み台を踏んで先に馬車へと上がり、あとから続く賢者の白き手を取り、車内へと伴った。
以前の巡見では手近な場所で馬車を降りて徒歩でそぞろ歩いたものだが、最近の彼は車内から視察することにしている。
徒歩で巡見しなくなった最も大きな理由は、彼の巨きな両耳が有名になりすぎた、まずはこの一点である。
徒歩で巡見しなくなった最も大きな理由は、彼の巨きな両耳が有名になりすぎた、まずはこの一点である。
真の民情を知ろうと思えば、彼の大きな両耳は目立ちすぎる。
陳情しようとする民たちには良い目印だが、民を虐げる者らに対しては「ヤバい、逃げろ」と知らせてやるようなものである側面に、彼はすぐに気付くことになった。
陳情しようとする民たちには良い目印だが、民を虐げる者らに対しては「ヤバい、逃げろ」と知らせてやるようなものである側面に、彼はすぐに気付くことになった。
今や、馬車は当日の公用がないもののうちから適当に選んでいるので、荊襄のあるじが乗っていることが悟られぬようになっている、という好都合な具合である。
馬車に乗ると、大街しか見ることは出来ぬながらも、窓から簾越しに見る街の様子は、普段通りの飾らぬ襄陽に違いないので、巡見の目的により適っている。
また、例えばいつぞやのように、わが龍の具合が俄かに優れなくなった時なども、頗る都合が良い。
また、例えばいつぞやのように、わが龍の具合が俄かに優れなくなった時なども、頗る都合が良い。
馬車はゆっくりと襄陽の大街を選んでまず半周する。
雒邑や長安の規模には及ばないが、さすが襄陽である。
大街には商家の甍が連なり、沿道を出店が埋め尽くす。
行商人たちが売り声をあげてそこかしこに現れ、民たちの他愛ない会話の欠片が車窓越しに聞こえてくる。
大街には商家の甍が連なり、沿道を出店が埋め尽くす。
行商人たちが売り声をあげてそこかしこに現れ、民たちの他愛ない会話の欠片が車窓越しに聞こえてくる。
時折、小吃を蒸したり焼いたりしている出店から、香ばしい香りも漂い来たるので、通りすがりに車窓の簾の端を捲って、その店舗の様子を観察したりするのも、彼の密かな楽しみである。
人混みにありがちな諍いの声は、今のところ耳にしない。
豊かさは民にゆとりを与える。
襄陽は文士も多く民度が高い。
人混みにありがちな諍いの声は、今のところ耳にしない。
豊かさは民にゆとりを与える。
襄陽は文士も多く民度が高い。
このような土地柄に恵まれるゆとりには、他者を許す寛大さを養う力もあるのかもしれない。
彼は、誰しもが領有を欲してやまぬこの荊襄が、いま他ならぬ己の手にあるこの僥倖を、天に深く謝するほかはない。
彼は、誰しもが領有を欲してやまぬこの荊襄が、いま他ならぬ己の手にあるこの僥倖を、天に深く謝するほかはない。
そして、その僥倖を驚くべき早さで彼のもとへと招いたのは、共に車に揺られているこの白き龍なのだと思えば、わが龍を得た僥倖も忘れることはできない。
彼が龍を得てから、ただの数年で彼は襄陽のあるじとして馬車に揺られ、こうして巡見をすることになるとは感慨深い。
白い羽扇を涼しく繰り、反対側の車窓から通りを眺めている龍の横顔を、彼は街を眺める視線の端で凝視した。
白い羽扇を涼しく繰り、反対側の車窓から通りを眺めている龍の横顔を、彼は街を眺める視線の端で凝視した。
真っ直ぐに視線を向けると、龍は直ぐに気づき、何か下問があるのではと生真面目に居住まいを正すので、龍の思考を妨げずに龍の姿を見ていようとすると、こうなる。
もしかしたら龍もこれに気づいていながら、彼のために気づいていない様子を装っているのかも知れない。
互いに左右それぞれの車窓から襄陽の街を眺め、車内はしばし沈黙のままである。
この沈黙の車内に第三者が居合わせたなら、一見して
――案外、それほどお仲が良いわけでもないのか
という感想を持つかもしれない光景ではある。
――案外、それほどお仲が良いわけでもないのか
という感想を持つかもしれない光景ではある。
而るにこの世の沈黙は多々ありながら、この君臣の沈黙には、言葉が既に無用となるほどの存在感の共有を示す濃やかさが漂うてやまない。
馬車に乗るために携えた手と手の温もりが、いまだに彼らの周囲に残っているかのような、物言わぬ独特の雰囲気が仄めく沈黙である。
そしてこの沈黙は、いずれかが働きかけずとも、まるで微風がそよぎ始めるような小さな切欠さえあれば、穏やかな会話に変じるのだ。
とある街角を曲がるために馬車が徐行すると、車輪の軋みも馬具の金属音も低くなり、民の話し声が鮮明に聞こえてくるや、彼ら君臣は肩を震わせて笑いを耐えた。
ここで笑えば、車内の笑いも民に聞こえて注意を引きかねぬからだ。
曲がり角を通過して、先に笑いを耐えきれなくなったのは彼の方で、車内は明るい笑い聲に満ち、陪乗する龍も羽扇の陰で忍び笑った。
「聞いたか、孔明」
「はい」
「はい」
彼はまた暫く笑い
「まさか今日、余人からこの言葉を聞くとはのぅ」
目尻に笑い涙を湛え、愉快そうにまた笑う。
「まさか今日、余人からこの言葉を聞くとはのぅ」
目尻に笑い涙を湛え、愉快そうにまた笑う。
「遂に、民さえ使う言葉に……」
彼の笑い聲は、冷静な龍にも作用しやすいのであろうか、軍議では決して見ることのできぬ年齢よりも若やいだ表情で、語尾が珍しく笑いに紛れて不明瞭に途切れている。
彼の笑い聲は、冷静な龍にも作用しやすいのであろうか、軍議では決して見ることのできぬ年齢よりも若やいだ表情で、語尾が珍しく笑いに紛れて不明瞭に途切れている。
『曹操の噂をすれば、曹操が来る』
打ち合わせもせぬのに、ぴたりと揃った両人の声が車内に渡り、それぞれ笑いの余韻に微笑む。
打ち合わせもせぬのに、ぴたりと揃った両人の声が車内に渡り、それぞれ笑いの余韻に微笑む。
「あの頃、許昌の裏で儂らが密かに囁いていた言葉じゃ。………それが、のぅ」
今や、言葉は一人歩きを始めた。
これを民が使った場合は『曹操』は既に本人を指し示さない。
単純に「噂をすれば影」の意味に転じている。
言葉の伝播とは、人力が及ばぬ所である。
言葉の伝播とは、人力が及ばぬ所である。
「この言葉の考案者が、わが君であることを、いずれ史書に記させ、後世に示さねばなりますまい」
龍が涙目で戯れるので、彼も機嫌斜めならず
「応よ、文章はそちが起草するのだぞ」
満面の笑みで龍に相対すると、龍はこの至近の距離でも袖を揃えて畏まり
「承りました」
と低頭する。
龍が涙目で戯れるので、彼も機嫌斜めならず
「応よ、文章はそちが起草するのだぞ」
満面の笑みで龍に相対すると、龍はこの至近の距離でも袖を揃えて畏まり
「承りました」
と低頭する。
昔日、彼は許昌で起居していたことがある。
龍との寝物語に話す定番の昔話のひとつは、許昌の思い出である。
龍との寝物語に話す定番の昔話のひとつは、許昌の思い出である。
なぜなら、龍の関心の高い話題らしいと覚えたがゆえ、問わず語りに、思い出すままにあれこれと聞かせて今日に至る。
許昌の話の三度に一度は出る言葉が
「……じゃが、『曹操の噂をすれば、曹操が来る』でな。要心に越したことはない」
であるので、龍にとっては聞き慣れた言葉だったが、彼以外の聲で聞いたことがなかった。
今日、彼以外の聲でこの言葉が発せられた時に彼と共に居合わせ、隣で磊落に笑う彼を見、言葉の発祥から伝播までの歳月を思えば、笑いとは別な感情が龍の双眸を潤ませ、軽口で隠さざるを得ぬほどの思いが胸に迫る。
彼ら君臣のそれぞれの思いを乗せて、馬車は襄陽の半周を終えた。
「……じゃが、『曹操の噂をすれば、曹操が来る』でな。要心に越したことはない」
であるので、龍にとっては聞き慣れた言葉だったが、彼以外の聲で聞いたことがなかった。
今日、彼以外の聲でこの言葉が発せられた時に彼と共に居合わせ、隣で磊落に笑う彼を見、言葉の発祥から伝播までの歳月を思えば、笑いとは別な感情が龍の双眸を潤ませ、軽口で隠さざるを得ぬほどの思いが胸に迫る。
彼ら君臣のそれぞれの思いを乗せて、馬車は襄陽の半周を終えた。
半周ののちは、この車が城内を巡視していることが分からぬよう、縦横に巧みに経路を変えつつ、南門から一旦城外へ出る。
春ならば農作業の進捗を見、夏ならば水の過不足を見、秋ならば収穫の多寡を見て城へ戻る。
今日は、一旦城外へ出る序でに隣の棗陽まで足を伸ばして、漢室中興の誉れ高き世祖・光武帝の旧跡を訪れることにしており、彼はいつもの巡見に比して心弾むものを身の裡に覚えていた。
(二)に続く