彼らは世祖・劉秀ゆかりの鹿門廟を遥拝したあと、棗陽の城外の白水のほとりへ向かった。
漢室の公事として世祖・劉秀の祭祀を挙行するならば、彼は威儀を正し隊列を成して山中のこの廟へと登るであろうが、今日は私的な外出であり、領内の視察こそが主な目的である。
民草こそが国家の根幹だと考える彼は、遥拝で充分に満足である。
世祖・劉秀がこの遥拝をどう考えようとも構わぬ、という合理的で先進的な部分も、彼が名君である証左であり、龍は心ひそかに喜ばしく誇らしい。
しばし車に揺られ、彼は案外に正確な己の腹時計に照らして
「例によって、早くに着きそうか」
隣の静けき龍に問掛けると
「はい」
短く予想通りの答えを得たので
「ではちと、休むとしよう」
「例によって、早くに着きそうか」
隣の静けき龍に問掛けると
「はい」
短く予想通りの答えを得たので
「ではちと、休むとしよう」
隣に座る白い龍へ柔らかな眼差しを向け、このような時ですら袖を揃えて低頭して諾う龍をゆかしく思いながら馬車の側面を叩いて、車外に従う騎馬の者に合図を送った。
馬車はほどなく、ゆっくりと止まる。
彼は自ら馬車の前扉を開けて、冠のぶんの身を屈めて車外へ姿をあらわした。
従者たちは心得ており、即座に踏台を据えて彼の降車に備える。
彼は自ら馬車の前扉を開けて、冠のぶんの身を屈めて車外へ姿をあらわした。
従者たちは心得ており、即座に踏台を据えて彼の降車に備える。
憂いを含んだかに見える秋の湖畔の眺めが、彼の眼前に広がっていた。
いつ自分が降車したのかも覚えず、いま傍らに侍る我が軍師が降車する際に、確かに普段通りに手を伸べて助けたはずのことさえも忘れるほどの眺めである。
うつくしい、などという平凡な言葉では足りぬので、彼はただ見入ることしかできずにおり、いま少し陰影のよいところを無意識に探して、徐に数歩を進めた。
いずこからか枯れ草を焼く煙の香りが漂い、彼はふと郷愁をおぼえ、故郷の秋を思い出し、蒼天を仰いで微かに溜息をついた。
「棗陽へは、初めてじゃが……」
鏡のような湖水と、周囲の銀杏の秋の装いと、高く蒼く澄んだ空と、遠い稜線を前に、彼が途中で言葉を呑むと
「棗陽へは、初めてじゃが……」
鏡のような湖水と、周囲の銀杏の秋の装いと、高く蒼く澄んだ空と、遠い稜線を前に、彼が途中で言葉を呑むと
「世祖も、このような季節にご覧になった景色なのかも知れませぬ」
龍は、古今の名文と有り余るほどの文才とを頭脳に秘めているであろうに、彼の郷愁や感慨に沿う控えめな言葉を呟く。
龍は、古今の名文と有り余るほどの文才とを頭脳に秘めているであろうに、彼の郷愁や感慨に沿う控えめな言葉を呟く。
「だとしたら……嬉しいのぅ。何とのう、の」
ーー果たして儂は、漢室を中興しおおせるであろうか。
そのような感傷も折々に胸によぎりがちである彼は、わが龍の聲音で「世祖」を聴き、心の中の灯し火が明るく瞬くような心地である。
そのような感傷も折々に胸によぎりがちである彼は、わが龍の聲音で「世祖」を聴き、心の中の灯し火が明るく瞬くような心地である。
既に漢室を取り戻す偉業を成し遂げた世祖・劉秀と、その傍流の末裔である己など、もとより比べるべくもないのだが
(当代随一の賢者と、天下無双の豪傑らと共に王道を歩むことができる。これらこそは、世祖以上の幸運であろう)
(当代随一の賢者と、天下無双の豪傑らと共に王道を歩むことができる。これらこそは、世祖以上の幸運であろう)
そう思い至ると、あとは己の器量次第と、肚を括らざるを得ない。
何気なく傍らに眸を移すと、彼は今までの思考を忘れてしまった。
蒼い空を戴き、黄金色に輝く銀杏の木立と、その彩りを逆さに映した湖面を遠景に負うて、黒き衣を纒うて周囲の彩りと姿とを鮮やかに画し、衣冠正しく、羽扇を軽やかに繰る当代随一の賢者の涼しき白皙が、ひたすらに眩しい。
彼の頭の中から、漢室の来し方も行く末も消え去り、心の中を去来していた雑念も霧散し、日にちも刻限もなく、今はただ、視界いっぱいの光景のみが彼と共にあるかのような感覚をおぼえた。
先程まで、うつくしくも物思うような秋の風情に、春は行く末を望む季節であり、秋は來しかたを顧みる季節であるのかもしれない、などと五十年から六十年ほどの人の壽の限りにおける感傷にすぎぬことが心をよぎったが、今の眺めの中に、歳月はない。
蒼色も黄金色も、かりそめの人の世における秋の意味を手放し、同じ天のもとに廿も歳が離れた彼らふたりが出逢い、手を携えて、共に歩み続ける奇跡を景色にして、描き出したかのようだった。
同一の景観のなかに、ただ一人の人の姿が加わるだけで、その場は歳月が遷ろわぬ仙境にさえなり得る、という境地を彼は幾度も経験してきてはいる。
而るに、このような機会はいつでも突然に訪れるため、彼の眸は釘付けになりながら、今がまたその時であったと、考えが及ぶまで呆とせざるを得ない。
「主公、軍師。お茶のお支度がととのいました」
「おお、すまぬな」
従者の注進で彼は我に返り、仙境の眺めに心を残しながら、湖に背を向ける。
「おお、すまぬな」
従者の注進で彼は我に返り、仙境の眺めに心を残しながら、湖に背を向ける。
彼が外出の際は、小さな炉と茶器、地毯を必ず携行し、休息地が晴れならば野外で一服して小憩するのである。
実のところは、龍の水切れを防ぐための習慣なのだが、彼は自分の加齢に由来する用心のために備えている、という建前でいる。
水は、日用の湯冷ましを持って来ても事は足りるが、温かい茶を点てて喫したならば、龍の軆にとってなお良い。
車酔いもしにくいのである。
彼は龍と一年足らず起居を共にしたあたりで、龍本人よりも龍の軆の繊細さを知り抜いてしまったのだが、龍に関して知り得たことを滅多に話題にせぬ上に、細かいことを言わない。
結果的に龍がよく眠りよく食し、心置きなく謀れるよう、暗に算段してやるだけでよい、と思っており、ともすれば密かに楽しいのだ。
一服の茶のあと、彼らふたりは再び車上の人となった。
この先で、小さな馬車に乗り換えるために待ち合わせをしているのである。
一服の茶のあと、彼らふたりは再び車上の人となった。
この先で、小さな馬車に乗り換えるために待ち合わせをしているのである。
襄陽では、公用のありふれた形態のこの馬車を目眩ましのために使えるが、このまま棗陽へ乗り入れたなら
ーー襄陽から誰か来た
ーー御用向きの馬車だ
ーー何事だろう
ーー御用向きの馬車だ
ーー何事だろう
と、たちまち民の口の端にのぼり、無用な心配や憶測を招く懸念をいだくからである。
先導する護衛の者が馬の歩みを止める気配を察して、御者は馬車の速度を緩め、車輪がそっと止まるよう手綱を捌いた。
車内の二人の姿勢は、少しも揺らぎもしない。
先導する護衛の者が馬の歩みを止める気配を察して、御者は馬車の速度を緩め、車輪がそっと止まるよう手綱を捌いた。
車内の二人の姿勢は、少しも揺らぎもしない。
「主公、龐林どのがお迎えに参じております」
「おお、大儀よの」
彼は注進を聞くと、中腰がちに立ち上がり、みずから馬車の前扉を開けた。
彼は馬車の横に控えている龐林が跪く前に、機敏に歩を進め、慌てて片膝を折ろうとする龐林の肘を助けおこし
「待たせたのぅ。世話になる」
主君が臣にというよりも、伯父が甥に、という種類の親しみが滲んだ調子で言葉をかけた。
「おお、大儀よの」
彼は注進を聞くと、中腰がちに立ち上がり、みずから馬車の前扉を開けた。
彼は馬車の横に控えている龐林が跪く前に、機敏に歩を進め、慌てて片膝を折ろうとする龐林の肘を助けおこし
「待たせたのぅ。世話になる」
主君が臣にというよりも、伯父が甥に、という種類の親しみが滲んだ調子で言葉をかけた。
「滅相もなきことにございまする」
龐林は両袖を揃えて低頭し
龐林は両袖を揃えて低頭し
「お車はあちらに。どうぞお召し下さい」
と腰を屈めたまま後方を指し示して彼の応えを待っていたが、何も聞こえてこぬので顔をあげて仰ぎ見た。
と腰を屈めたまま後方を指し示して彼の応えを待っていたが、何も聞こえてこぬので顔をあげて仰ぎ見た。
龐林の目に映ったのは、彼の長い腕の先の手に手を取られ、まさに車を降りて地を踏まんとする龍の軍師の白い姿だった。
降車するや、ふたりは緩やかに手をほどき、人の形をした龍は白い羽扇を横たえ、澄んだ秋風が戯れる袖を揃え
「龐林どの」
と翡翠が転がるが如き風情の聲音で、目下の龐林へ先に礼をとるので
「軍師」
龐林は言葉少なく礼を返す。
降車するや、ふたりは緩やかに手をほどき、人の形をした龍は白い羽扇を横たえ、澄んだ秋風が戯れる袖を揃え
「龐林どの」
と翡翠が転がるが如き風情の聲音で、目下の龐林へ先に礼をとるので
「軍師」
龐林は言葉少なく礼を返す。
随行してくる龍は、いま馬を下りて君側へと移動して来るものだろうと予測していた龐林は、意外だったために出遅れてしまった。
この賢者が臥龍と呼ばれ南陽に起居していた頃、龐林は哥の使いなどで何度か会っているので、両者は知らぬ仲ではない。
あの頃は龍を哥の学友のひとり、それ以上でもそれ以下でもない存在として見ていた龐林だったが、今や天下の賢者といえば鳳雛と呼ばれる哥、あるいはこの龍である。
主公たる彼の面前で、軍師に対して
挨拶が出遅れたことを詫びたりするなど、今回の役目を全うする中に含まれておらぬ個人的な粗相を取り繕うことなので、龐林は口を慎む。
詫びを言ったところで、おそらくは天下一の賢者の舌先三寸で逆に上手く花を持たされ、照れくさいことになる。
己の失態を口先で直ちに取り消そうなどという気がない龐林は、さすが、ひとかどの人物である。
「龐林よ、造作をかけるのぅ……。先生、参ろうか」
彼は龐林を労ったうえで、側に控える龍の手を、振り返りもせずに慣れた様子で柔らかに捉えて、龐林が用意した車の方へと龍を伴って歩を進める。
ふたりが手を携えているので、龐林は右脇に居るべきか、それとも左脇かと一瞬迷ったが、馬車が目と鼻の先に見えている以上は先導の必要もなく、結局は彼らの背後を三歩下がって従ってゆくことにした。
(三)につづく