龐林は、ひとりで朝粥を摂っていた。
青菜の色が映え胡麻の香りが和した、瑞々しい一品である。
青菜の色が映え胡麻の香りが和した、瑞々しい一品である。
他には蒸籠で蒸した蔬菜と、泡菜の入った小さな蓋物、あとは湯茶と水菓子のみであるが、旬のものを彩りよく取り揃えて、滋味溢れる食卓である。
今朝は、長年龐家に仕えてきた蘇厨師が、みずから龐林に給仕をしていた。
「蘇師」
「はい」
話しかけておきながら、龐林はもう一匙の粥を含んで微かに咀嚼して飲み下し
「旨いっ。実に」
例えば、役者の名演を褒めるような勢いある大きな声で「旨い」を言い放つと匙を置き、箸を取り直して泡菜を粥の椀に更に加えて続ける。
「この泡菜では、粥が止まらぬ。相変わらず………いや、更に腕を上げたか」
「お褒めにあずかり、光栄でございます」
「お褒めにあずかり、光栄でございます」
龐家の者は、蘇の料理の腕前に敬意を表して、蘇を「蘇師」という愛称で呼んでいる。
初めは恐縮していた蘇であったが、今では呼ばれ慣れて、この愛称を誇りに思う。
兄・龐統が荊襄の主の軍師になってから、龐林は兄のもとへ蘇師を遣わした。
新しい境遇に身を置く以上、慣れ親しんだ実家の味が慰めと励ましをもたらすだろうと考えたのはもちろんのこと、状況によっては深酒を重ねる日々が生じる懸念から、寝食について物申せる者を、兄の側近くに置いておきたかったのだ。
これらの懸念が杞憂であったと考えて良いらしきことは、龐林にとって嬉しい誤算である。
「蘇師。心配無用だ」
「……なぜ、お分かりに」
白髪の増えた蘇の憂い顔を見遣りながら、龐林は一旦、匙を置いた。
「はは。分からぬはずなかろう。私は幼い頃から蘇師の姿を見てきているつもりだ」
「いえ、あの」
普段、寡黙で落ち着いている蘇にしては、今朝は目が泳ぎがちで、どことなく落ち着きがなく、言いたいことがあるのに言えぬような様子であることに、龐林は気付いていた。
「心配事があるなら、申してみよ」
龐林は、いつもと変わらぬ口調で蘇に水を向ける。
「されば申し上げます」
蘇は両袖を揃えて
「昨日から、若先生に差し上げている献立と全く同じ料理を、主公と軍師に差し上げておりますが……。果たしてこれで良いものやら。落度があらば若先生が責めを負われるのではと、気が気でなく……」
今までの心配事を正直に吐露した。
龐家の面々は聡いので、隠し事など通用しないことを使用人たちは心得ている。
「蘇師の料理が気に入らぬものなど、滅多に居らぬ」
何かと思えば左様なことか、という調子で、龐林は顔色も変えずに箸を進めて蒸篭の中の蔬菜を小皿に移す。
蘇はといえば、調理の腕前に巧拙はあろうとも、結局のところ味覚というものは、個人の習慣や嗜好によって正解が異なることを熟知しているので、龐林の一言で不安が去るものではない。
曇りがちな表情を変え得なかった。
「哥から……大蒜と八角を使わぬように、と注文があったとのこと、苦労をかける」
「はい。でも、それしきのことは」
「それしき、と言えるところが、蘇師の凄いところだ。……気づいていないのか?」
龐林が、幼時を彷彿とさせる笑顔で蘇師に眼差しを向けると、ようやく蘇師は、やや緊張を解いたようだった。
「そうでしょうか……」
「そうだとも」
「そうだとも」
龐林は背を正し
「今朝はまるで、たとえば仙人の朝餉のようではないか。まさか小さな古鎮の家の食卓とは見えぬ。御二方にふさわしかろう。品の良い趣向も見事じゃ。さすがは蘇師」
静かな口調を変えもせず、蘇の腕前を褒めた。
龐林には、昔から大袈裟なところがないので、この言葉は世辞でも身贔屓でもない重みを帯びて、蘇の心に届く。
蘇の心配をよそに、彼ら君臣二人は、龐林の予想の通りに、和やかな朝餉を楽しんでいた。
蘇の心配をよそに、彼ら君臣二人は、龐林の予想の通りに、和やかな朝餉を楽しんでいた。
この旅先でも淡い朝粥を龍に与えることができるのは、龐家の気配りであるとともに、実際に調理する者が心を尽くしてくれた結果であると、彼は有り難く思う。
外へゆくたびに、厨師を召し連れて作らせるならば、彼にとって好都合であるが、供回りに加えて、結局は食材までわざわざ運ぶことになろう。
それでは「お忍び」の目的の障りになる上に、行った先の厨房を統べている者に対して気が引ける。
また、厨房は、厨師が采配する戦場ともいえる。
余所の厨師を厨房に入れようとすれば、剣呑なことにもなりかねぬ。
彼なりに思案し、今のところ、先方の厨師に二、三の注文を伝えて献立を一任することにしている、というわけである。
もちろん、これらはあくまで彼の要望であるという建前でおり、龍の嗜好や食養生に合わせたいが故であるなどとは、一切明かさない。
彼だとて、草莽から叩き上げの身の上であり、こういった場合は銀をはずんでおき、肉や魚などの馳走を適当に作らせ、美酒を用意させるほうが、厨房には都合が良かろうこともよく理解している。
料理も酒も必ず残る上、食材を切り落とした端なども洩れなく使い、普段より良い賄いもできようから、使用人たちも望むところであろう。
されど、彼にとって、精巧なつくりの我が龍を養い、よく眠らせることは、漢室中興と同じく密かな大事なのである。
多少、食に煩い主君と思われようとも、彼は外遊の際は当分この方法を採ろうと考えている。
彼は、真新しい蒸籠の中で、潤いと艶を帯びた青い葉の上に並んだ料理の数々の中に龍の好物を見つけたので箸で捉え
「さあ、先生。いま一つ」
と、龍の使う粥の椀に直箸で運び入れてやった。
「頂戴いたします」
龍は細い聲で素直に応じ、何事もなかったように食事を続ける。
襄陽から従ってきた供回りが居流れる端に控える給仕役の者どもは一様に
(親子みたいだな)
と、荊襄の主の食事にその一の臣が陪席しているにしては意外すぎる場面をその目で見てしまったわけだが、さすがは龐家に仕える者共で、皆、眉ひとつ動かさない。
むしろ、時々大酔して奇声を発したりすることがあった長公子、つまり龐統のほうが、この古い邸で龐家の使用人らが驚くような状況を呈してきた記憶が鮮やかなので、主公が手づから臣に小菜を分け与える微笑ましい様子など、それこそ可愛いものだった。
龐統の名誉のために言えば、大酔して発していた奇声とは、即興の詩の高吟であったにすぎない。
惜しむらくは、呂律が回っておらず、誰も聞き取れなかったため、後世に伝わらなかったことである。
彼は、龍の食が進む様子を満足げに眺め
(さもあらん。百合根は、孔明の好物のひとつゆえな)
と、目を細めながら、よい具合の泡菜を粥の友として、匙を取った。
我が龍は、特段の味は持たずとも、淡い風味や爽やかな食感を持つ食材を好む。
彼は長年にわたり龍と共に暮らして、それを知っている。
この百合根などは、まさに秋頃から旬を迎え、格別であろう。
相好を崩して、ただの父親か或いは爺様か、という風情の彼は、龍に対して、もはや好物を確認する必要すらなく、箸の上げ下ろしの序でに、毎食の都度に龍の好物を見繕っては一口多めに滋養をつけさせるのである。
龍としては、彼に仕官して以来、食の好みをあれこれと述べた記憶はないのだが、共に起居してきた歳月が長くなると、彼のような人柄の人物には、委細知られてしまうのだろうかと、この事に思い至るたびに胸の奥が仄かに温かみを帯びる。
その温もりを感じると同時に、食の一事に関してすら斯様である以上は、この心の奥に秘め匿しているつもりの彼への思慕の念など、一体どのくらい知られてしまっているのだろうかと、胸の温もりの隅に、甜いのか苦いのか分からぬ疼きを覚えずにはいられない。
そればかりか、幼い頃からどこか大人びて、小さな弟の手前もあり、若かりし父母に心のままに甘えた記憶が殆ど見当たらないこの龍は、
「わたくしめも、我が君にお一つ」
などと囁いて、今日ならばこの泡菜などを直箸で彼の椀へ運び入れてみたい思いさえ過ぎるのだった。
そうであったなら、おそらく彼は喜ぼうが、君寵に馴れた如き振舞いは厳に慎まねばと、龍はしばしば、涼しい顔ばせの下で、己の心の奥底を騒がせる想いと葛藤しては、理で情を制しているのである。
彼は龍の主君に他ならぬというのに、龍にとっては若い祖父のような、それとも父のような、或いは歳の離れた兄のような存在に思える刹那が幾度もあり、そして彼はそれらのいずれでもなく、いずれよりも失いがたい唯一の人である事実に思い入る他はない。
(五)に続く