襄陽秋水(七)

2024/06/24

三世紀ss 襄陽秋水

 ほのぼのと語らいながら彼らが茶を喫していると、この二階へと階段をのぼる足音が聞こえてきた。

足音は、会話を重ねながら、斜め後ろの角の卓の方へ移動して

「小二(シァオァル)、いつもので頼む」
「はい、お酒と、花生、抄手と、燙青菜」
「それと、蒸栗、な」
「あい、合点です。今年のは甘いですよ〜」

常連客であろうか、店の者も慣れた様子のやり取りである。

二階へ上がるとは、彼ら君臣と同じく、長居をするつもりであろう。

彼は客を見ずに巨きな耳を傾けて、会話を窺った。


「親方ぁ、何かいい街ですね、ここ。ちっこいけど」

「そうだろ」

「それに、もう昼餉だなんて、親方、気前がいいや」

「こいつ」

「へへ」

二人連れの打ち解けた様子は、耳で聞くだけでも微笑ましい。


「……もうすぐ雨になる。雨ん中の道中ってのは、やらんに越したことはない。雨宿りさ」


この会話を耳に挟み、彼は窓から空模様を見あげた。

確かに、雲の色が灰がかっている。

店の前で棋に興じていた老人たちも、いつの間にか散っており、道端の物売りも姿が半減していた。


龍はといえば、今の空模様を見るまでもなく

(本日は……本来は一日中まとまった雨のところ、わが君のお力を以っておそらく小雨、夕刻には止む)

と予見しており、今日の天候がやはり本来の予測よりは良いであろうことを見定め

(わが君は、確かに晴天の氣を天運にお持ちだ)

との思いを新たにしている。


彼と共に生き始めてからというもの、龍は翌日の天候について必ず「わが君のお力を以って」という、証明は不可能なこの一条を、予測の補正に使っているのだ。



酒と花生と栗が運ばれてきたので、親方と呼ばれた男に、若い方が酌をしようと気を利かせる。


親方はそれを制して

「好き勝手飲むのが気楽だ。酌はいい。栗を食え。うまいぞ」

おのれで酒器を取り上げて、酒を舐め始める。


「……では遠慮なく………んわ……んめぇ」

「だろ。………おいおい、逃げやしねぇんだから、咽せるなよ」


彼は、蒸篭の蓋を取り、黙然と小刀を取り上げて、まだ冷めていない蒸し栗をいくつかを二つに割り、匙が入りやすいようにしてやると

「先生も味おうてご覧ぜよ」

手づから勧めてやった。

結局は、龍の世話を焼きたくなったのだ。


「お相伴に預かりまする」

「うむ」

彼は斜めならず頷き、龍が栗の甘みに頬を微かに緩める様子に心を盈たす。


また続いて階段を軽やかに上がる足音に続き

「はいはい、燙青菜と抄手ですよ〜」

良い香りと、皿がコトリと卓に置かれる音と、若い者がはしゃいでいる様子が伝わってきた。

若い者はまだ少年かもしれない。


「ねえ親方ぁ」

「ん?」

「棗陽っていうわりに、棗の木はオイラたちのとこほど多くないみたいでふよね」

栗を噛みながら話しているのか、少年の話す言葉の語尾が曖昧に曇って聞こえた。


「ハハ。おめえは棗が一等の好物だからな」

「えへへ」

どうやら男は、廉い花生は自分のアテに注文し、少年には好物を与えたとみえる。


「でも栗も大好きです。これほんっとにウマい。………胡桃もいいよな〜。あと、桑とかも」

「桑か………」


しんみりした口調で親方という男は呟き、酒を嘗めて黙り込んだ。

「………あれ。親方は、もしかして………。桑、あんまり………ですか」

桑が嫌いという理由で、大の男が黙り込むのもおかしな話なので、少年は柔らかい言葉を選んで探りを入れたようだった。


「………昔な」

空にはなっていない杯に、少しだけ酒を足して、親方という男は語りはじめた。


「俺が若ぇ頃の話だが。都が、長安にちょっと移ったあとの事さ」

途端に食器の音が止まり、少年が神妙に聞いている様子が、見ずともわかる。


「イナゴと日照りが酷くてな。どこぞでは人同士、食い合ったって話だ………」


男の追憶を天も聞いているのか、しとしとと、涙雨が降り出した。甍が黒々と濡れて、辺りも烟る。


「俺はあの頃な、ほれ、涿県に逃げててよぉ………あすこのでっかい桑の木、覚えてるか」

「あ、覚えてます」

ふたりは北方人のようだ。


「それでな。あの酷え年はな、秋にも桑の実が実った」

「えっ。桑って。秋になんか」

「そうだろ。妙な年だったからな。あの年は」


少年の箸が止まってしまっているので、男は抄手をひとつ掬って小鉢に入れてやる。

「あの辺に居た俺らは、あのでかい桑のおかげで皆、人を食わずに何とか生き延びた」


「へ………え。もし秋も実ってなかったら………」

「俺はおめえを、拾ってねえな。とっくに、あの世行きだ。ハハハ」

「え。困る。だめですよそんなの」

少年は、もう過ぎた事というのに、親方と会えなかったかも知れなかった可能性に怯えたようで、口調を強めた。


「……おいら、今日から桑の実、一等好きにします」

「ハハっ、無理しねえで、いいんだぞい」


彼は、郷里の年寄りたちがよく話していた北の訛りを、親方という男の語り口調の語尾に認めて、ひとり郷愁を感じていた。


(そうか。あの頃………あの桑の木は物も言わずに民を救っていたか)


記憶の中のあの桑の大樹を思い出し

(お前のように民を救える日が、儂に来るのであろうか)

何千里も彼方の大樹へ、問いかけずにはいられない。


「………興平も、始めの頃でございましたか」

翡翠の珠が絹布の上をまろぶような風情の聲で、わが龍は問うた。

親方という男が話していた飢饉のことを指している。


「左様………」

彼は茶を喫し、茶杯を置いてから両の袖を正し

「あの頃は。温侯が事で、難続きであったのう」


彼らの寝物語に語られる者は、まず乱世の奸雄、次いで呂温侯なのである。


龍は俯いて彼の茶杯に茶を足した。

白皙に落ちたその長い睫の翳を見るともなく見ながら

「そちは年の頃………十三、四、ほどか」

彼は、指を折るまでもなく言い当てた。

「はい」


わが龍が、今上と生年が同じであることに気づいてから、彼は

「してその頃、そちはいくつであった」

と聞かなくなった。




(八)につづく