かつて戦慄の暴将と呼ばれた侠が、
泰山に大穴を開けるほどの大暴れをしたあと、
地盤の変化からでしょうか、翔には巨大な温泉が湧きました。
湖のように、大きいのです。
はじめは沸騰したような、南蛮にあるような恐ろしい様子でしたが、
次第に川の支流の淡水と混ざって、
30度前後の、よい加減になったのです。
先生にお聞きすると、これは一時的なもので、
温泉成分は変わらなかったとしても、
次第に冷泉になるであろうとのことで、
おりしも初雪の頃、三国の諸将は、ここで傷を癒して、
機駕、轟の順に、三々五々、帰国してゆかれました。
「叔父上ーっ! 競泳しましょう!」
「んだとおー? 俺に適うと思ってンのかこのガキ!」
「もうガキではありません!」
「よーし、上等だ。あそこの岩山で折り返してここでゴールだ。おい爺さん、審判してくれよ」
「爺さんだとぉ? 無礼者めが。ワシも混ぜろ、その勝負」
「心臓発作起されても困るんだよ」
「温水で発作など起きるか、このバカタレが」
「言いやがったな! よーし、ドン尻でついてこいや」
「その言葉、そっくり返してやる。このクソガキめが」
「誰がガキだ」
「ワシから見れば、みんな鼻ったらしのガキじゃ」
「お二人とも、翔の五誇将の名が泣きますよ」
「なら趙雲、お前が審判しろ」
「えーっ、わたしがですか(どちらかといえば混ざりたいのに)
馬超どの、馬超どの、変わってくださらぬか」
「やだね、俺も混ざる気マンマンなんだから」
「おぉーぅい、魏延ーっ、魏延!」
竹の仕切りの向こうから、五誇将の皆さんの楽しそうな声が聞こえてきます。
「なんだか、楽しそうですわね」
「いいなー。つまんない」
「でも、おひいさま、だからといって、あっ、覗きはいけません」
「そうよねえ・・・。轟のみんなは気にしないのに、
翔のみんなは、お姫様扱いするんだもん。つまんなーい」
「おひいさまですもの」
しょんぼりしているお可愛らしいおひいさまの
向こうから、おひいさまの意中のお方の、
明るいお声がします。
「おーい、張飛、温泉で遊泳はよくないぞ」
「アニキ、そりゃ、猫の額みてぇに小っこいトコの場合だろ。
遠泳だぜ? 誰にも迷惑かけねぇよ!
勝負を挑まれて引っ込んでいられっかての」
龍帝剣のあのかたの声の、倍のボリュームで、
答えが返ってきました。
本当に皆さん、お元気です。
皆さん・・・。いえ、本当は、四誇将なのです。
これで、あの鬼髯の将軍がいらしたなら、どんなに嬉しいでしょう。
わたしは、湯気に曇る眼鏡を拭くふりをして、こぼれそうな涙を隠しました。
「はは・・・傷に響かなかったか、孔明」
岩盤に寄りかかって、ぬくぬくと温泉に浸る彼の傍には、
聖軍師がちんまりと腰掛けていた。
脇腹に受けた重傷は、いまだ回復の途中で、
白い包帯に巻かれた左腕も布で吊ったままで、
入浴は控えているので、温泉のそばの岩に腰掛けて、
ほのぼのとした光景に、心を洗っていたのである。
天の刃を天空の洛陽宮へ送り込み、瀕死の重傷を負って墜落ながら、
なおも八陣図を布くという離れ業をしてのけた
命旦夕の聖軍師を、あの直後、彼は血眼になって探し出し、
機武帝が召し連れていた天才外科医に一縷の望みを託して、
一命を取りとめさせたのだった。
「まだ、夢を見ているのではないかと、思うことがあります」
彼の問いに対する答えになっていないようだが、
確かに生きていて、だからこそ傷に響くこと、
そして、傷に響くほどの相変わらずの大声を、
彼の弟が発していること、聖軍師は、全てを夢のように喜ばしく
思っていることが、この一言で、彼には痛いほどに伝わった。
「そうだ、背中の傷、ちょっと見せてみろ」
「こちらは、もう大丈夫です」
「見てない」
「お見苦しいだけです」
「どれくらい治ったか、気になるじゃないか。
あの時はわからなかったが、見たぞ、あの靴の、尖った踵。痛かったろ。
間に合わなかった。その傷は、負わなくてもよかった傷だ」
彼は、長い腕を伸ばして、このあたりだろうと見当をつけて
聖軍師の背を擦った。
「間に合いました。なぜなら、わたしは、生きています・・・しかし」
「関羽のことか? お前を助けたから死なせたわけじゃない」
「わたしは・・・」
「お前な、アイツが間に合ってほしいと思ったとしたら、
見ろ、あそこで、義親父の分まで泳いでる、きっと、あの子のためだろ。
・・・アイツは今きっと、楼蘭と一緒に、どこかで見てる」
「あなたという人は、お優しい」
「そうか? 自分じゃ、分からないんだけどな。腕枕とおんなじだ」
彼は、ハハハと笑う。
「あの時、思い出しました」
「何をだ?」
「南蛮で、あなたが護ってくださったとき、・・・蓬莱に行かれる前に、翔に来てくださった事を」
「お前は、いちいち何でも覚えてるからな・・・。ちょとは、忘れたふりしろよ」
彼は、照れるように、意味も無く温泉の水面を、
ぱしゃぱしゃと叩いた。
彼は、天の刃を探しに行く前、
そっと、我が聖軍師に会いに行ったくせに、
この懐かしい顔を見てしまうのを躊躇って、
後から強く抱き締めて、そして東の涯の国に赴いたのだ。
「この大きな翼が、とても温かかったのです」
彼は、出会った頃の小さな真っ白な両翼のほうが、
聖なる軍師に似合うと思っていた。
大きな翼は、この軍師が背負うものの大きさを
目の当たりにするようで、美しくはあるが物悲しい心地に
ならざるを得ない。
「・・・雪が消えたら、楼蘭の棺を運んで、関羽と一緒に、
翔が良く見えるところに葬ろうと思う。
どこがいいかな。でも、墓参りしやすいとこがいいな」
「そうですね・・・」
温泉の水平線の向こうの、雪化粧した山々を眺めながら、
聖軍師は、羽の扇を口元にあてて、思案するような様子を見せた。
「雪が積もらないところにいたしましょう」
「そうだな、雪景色が見えて、墓参りしやすいところにしよう。
たとえば、住みたくなるような」
「お墓というよりも、廟ですね」
「そうだ。鬼髯廟といったところか。きっと、これからも翔を護ってくれる。
アイツはそういう侠だ」
彼の瞼の裏に、見事な髯をたくわえた、
生前の、おそらくは彼より年嵩であった義弟のおもかげが浮かぶ。
強面の鬼髯の侠は、愛馬の馬上で、優しく笑んだまま往生していた。
武将として、これ以上ないほどの、天晴れな最期だった。
侠として、あやかりたいような世の去り方よりも、
互いの誤解による蟠りを持った一時期に、言い訳ひとつせずに、
苦を忍んででも生き延びて、義兄弟の誓いを全うしようとした、
その古武者のような生き方をこそ、彼は眩しく思い出す。
あのような侠は、もう現れないかもしれない。
あのような侠と出会い、共に戦えたことを誇りに思う。
同年同月同日に死なんと誓い合った三人だが、
あの侠の髯面は、思い出の中から、たびたび蘇っては、
「誰しもが、いつか必ず通る道でござる、
そう慌てて来る必要がござろうか」
と、いつも笑っている。
翔が、鬼髯の将軍を含めて
彼らの顔も声も忘れた世代ばかりになっても、
三璃紗の平和のために三国が力を合わせて戦い抜いた
その象徴が、この廟であればいい。
ほかに、たとえば彼個人のためには、廟堂はいらない。
「そうだ、俺には、廟を作ったりするなよ? いつの日か、
お前が天寿を全うしたら、俺の墓の隣に埋まってくれれば、それでいい」
「あなたの隣は、きっと奪い合いです。わたくしなど」
聖軍師は、不吉な言葉をわざと一笑に附そうとしたが、
彼は真面目な声を続けた。
「お前のために空けておくから、一日でも遅く来いよ」
彼は、もう戦いの為に広げることはさせないと、
心に誓いながら、聖なる軍師の折りたたんだ翼の縁を、そっと撫でた。
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泰山に大穴を開けるほどの大暴れをしたあと、
地盤の変化からでしょうか、翔には巨大な温泉が湧きました。
湖のように、大きいのです。
はじめは沸騰したような、南蛮にあるような恐ろしい様子でしたが、
次第に川の支流の淡水と混ざって、
30度前後の、よい加減になったのです。
先生にお聞きすると、これは一時的なもので、
温泉成分は変わらなかったとしても、
次第に冷泉になるであろうとのことで、
おりしも初雪の頃、三国の諸将は、ここで傷を癒して、
機駕、轟の順に、三々五々、帰国してゆかれました。
「叔父上ーっ! 競泳しましょう!」
「んだとおー? 俺に適うと思ってンのかこのガキ!」
「もうガキではありません!」
「よーし、上等だ。あそこの岩山で折り返してここでゴールだ。おい爺さん、審判してくれよ」
「爺さんだとぉ? 無礼者めが。ワシも混ぜろ、その勝負」
「心臓発作起されても困るんだよ」
「温水で発作など起きるか、このバカタレが」
「言いやがったな! よーし、ドン尻でついてこいや」
「その言葉、そっくり返してやる。このクソガキめが」
「誰がガキだ」
「ワシから見れば、みんな鼻ったらしのガキじゃ」
「お二人とも、翔の五誇将の名が泣きますよ」
「なら趙雲、お前が審判しろ」
「えーっ、わたしがですか(どちらかといえば混ざりたいのに)
馬超どの、馬超どの、変わってくださらぬか」
「やだね、俺も混ざる気マンマンなんだから」
「おぉーぅい、魏延ーっ、魏延!」
竹の仕切りの向こうから、五誇将の皆さんの楽しそうな声が聞こえてきます。
「なんだか、楽しそうですわね」
「いいなー。つまんない」
「でも、おひいさま、だからといって、あっ、覗きはいけません」
「そうよねえ・・・。轟のみんなは気にしないのに、
翔のみんなは、お姫様扱いするんだもん。つまんなーい」
「おひいさまですもの」
しょんぼりしているお可愛らしいおひいさまの
向こうから、おひいさまの意中のお方の、
明るいお声がします。
「おーい、張飛、温泉で遊泳はよくないぞ」
「アニキ、そりゃ、猫の額みてぇに小っこいトコの場合だろ。
遠泳だぜ? 誰にも迷惑かけねぇよ!
勝負を挑まれて引っ込んでいられっかての」
龍帝剣のあのかたの声の、倍のボリュームで、
答えが返ってきました。
本当に皆さん、お元気です。
皆さん・・・。いえ、本当は、四誇将なのです。
これで、あの鬼髯の将軍がいらしたなら、どんなに嬉しいでしょう。
わたしは、湯気に曇る眼鏡を拭くふりをして、こぼれそうな涙を隠しました。
「はは・・・傷に響かなかったか、孔明」
岩盤に寄りかかって、ぬくぬくと温泉に浸る彼の傍には、
聖軍師がちんまりと腰掛けていた。
脇腹に受けた重傷は、いまだ回復の途中で、
白い包帯に巻かれた左腕も布で吊ったままで、
入浴は控えているので、温泉のそばの岩に腰掛けて、
ほのぼのとした光景に、心を洗っていたのである。
天の刃を天空の洛陽宮へ送り込み、瀕死の重傷を負って墜落ながら、
なおも八陣図を布くという離れ業をしてのけた
命旦夕の聖軍師を、あの直後、彼は血眼になって探し出し、
機武帝が召し連れていた天才外科医に一縷の望みを託して、
一命を取りとめさせたのだった。
「まだ、夢を見ているのではないかと、思うことがあります」
彼の問いに対する答えになっていないようだが、
確かに生きていて、だからこそ傷に響くこと、
そして、傷に響くほどの相変わらずの大声を、
彼の弟が発していること、聖軍師は、全てを夢のように喜ばしく
思っていることが、この一言で、彼には痛いほどに伝わった。
「そうだ、背中の傷、ちょっと見せてみろ」
「こちらは、もう大丈夫です」
「見てない」
「お見苦しいだけです」
「どれくらい治ったか、気になるじゃないか。
あの時はわからなかったが、見たぞ、あの靴の、尖った踵。痛かったろ。
間に合わなかった。その傷は、負わなくてもよかった傷だ」
彼は、長い腕を伸ばして、このあたりだろうと見当をつけて
聖軍師の背を擦った。
「間に合いました。なぜなら、わたしは、生きています・・・しかし」
「関羽のことか? お前を助けたから死なせたわけじゃない」
「わたしは・・・」
「お前な、アイツが間に合ってほしいと思ったとしたら、
見ろ、あそこで、義親父の分まで泳いでる、きっと、あの子のためだろ。
・・・アイツは今きっと、楼蘭と一緒に、どこかで見てる」
「あなたという人は、お優しい」
「そうか? 自分じゃ、分からないんだけどな。腕枕とおんなじだ」
彼は、ハハハと笑う。
「あの時、思い出しました」
「何をだ?」
「南蛮で、あなたが護ってくださったとき、・・・蓬莱に行かれる前に、翔に来てくださった事を」
「お前は、いちいち何でも覚えてるからな・・・。ちょとは、忘れたふりしろよ」
彼は、照れるように、意味も無く温泉の水面を、
ぱしゃぱしゃと叩いた。
彼は、天の刃を探しに行く前、
そっと、我が聖軍師に会いに行ったくせに、
この懐かしい顔を見てしまうのを躊躇って、
後から強く抱き締めて、そして東の涯の国に赴いたのだ。
「この大きな翼が、とても温かかったのです」
彼は、出会った頃の小さな真っ白な両翼のほうが、
聖なる軍師に似合うと思っていた。
大きな翼は、この軍師が背負うものの大きさを
目の当たりにするようで、美しくはあるが物悲しい心地に
ならざるを得ない。
「・・・雪が消えたら、楼蘭の棺を運んで、関羽と一緒に、
翔が良く見えるところに葬ろうと思う。
どこがいいかな。でも、墓参りしやすいとこがいいな」
「そうですね・・・」
温泉の水平線の向こうの、雪化粧した山々を眺めながら、
聖軍師は、羽の扇を口元にあてて、思案するような様子を見せた。
「雪が積もらないところにいたしましょう」
「そうだな、雪景色が見えて、墓参りしやすいところにしよう。
たとえば、住みたくなるような」
「お墓というよりも、廟ですね」
「そうだ。鬼髯廟といったところか。きっと、これからも翔を護ってくれる。
アイツはそういう侠だ」
彼の瞼の裏に、見事な髯をたくわえた、
生前の、おそらくは彼より年嵩であった義弟のおもかげが浮かぶ。
強面の鬼髯の侠は、愛馬の馬上で、優しく笑んだまま往生していた。
武将として、これ以上ないほどの、天晴れな最期だった。
侠として、あやかりたいような世の去り方よりも、
互いの誤解による蟠りを持った一時期に、言い訳ひとつせずに、
苦を忍んででも生き延びて、義兄弟の誓いを全うしようとした、
その古武者のような生き方をこそ、彼は眩しく思い出す。
あのような侠は、もう現れないかもしれない。
あのような侠と出会い、共に戦えたことを誇りに思う。
同年同月同日に死なんと誓い合った三人だが、
あの侠の髯面は、思い出の中から、たびたび蘇っては、
「誰しもが、いつか必ず通る道でござる、
そう慌てて来る必要がござろうか」
と、いつも笑っている。
翔が、鬼髯の将軍を含めて
彼らの顔も声も忘れた世代ばかりになっても、
三璃紗の平和のために三国が力を合わせて戦い抜いた
その象徴が、この廟であればいい。
ほかに、たとえば彼個人のためには、廟堂はいらない。
「そうだ、俺には、廟を作ったりするなよ? いつの日か、
お前が天寿を全うしたら、俺の墓の隣に埋まってくれれば、それでいい」
「あなたの隣は、きっと奪い合いです。わたくしなど」
聖軍師は、不吉な言葉をわざと一笑に附そうとしたが、
彼は真面目な声を続けた。
「お前のために空けておくから、一日でも遅く来いよ」
彼は、もう戦いの為に広げることはさせないと、
心に誓いながら、聖なる軍師の折りたたんだ翼の縁を、そっと撫でた。
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