指に関する5つのお題 (2) 話をさせて【人差し指】

2007/01/31

21cパラレル(指に関する5title) 劉公叔の物語(21世紀)

「父上ー」
「おお、来たか、長旅であったな。腹は減っておらぬか」
三階の、次の間の続いた、一番大きな部屋のドアを開け放って、
彼は待っていて、駆け寄る子息を、長い腕で抱きとめた。

「大丈夫です。飛行機乗り換えて、バス乗って、
 そこまで路面電車も乗って、楽しかったです!」
初めての海外旅行の往路に、子息は時差ボケも感じさせない眼を
輝かせていた。公共交通機関で、はるばるホテルまでやってきたのだ。

国際運転免許を持つ、酒豪の義弟は、今日も朝から晩まで彼の足をつとめ、
黒塗りではあるものの、UVカットガラスしか嵌っていない頼りない庶民的レンタカーには、今は彼の厳命で、非常時の威嚇射撃しか行わないが、超特A級の狙撃手である長髯の義弟が、実弾を装填した銃を懐中して同乗していた。

自然、執事的役割の常山の好漢が、ホテルに缶詰になり、メールチェックやスケジュール管理や経理などを、俄か仕立ての事務部屋でこなし、今晩は、空港に迎えに行ったのだ。

彼は、廉いプチホテルを借り切って滞在している。
大規模ホテルの最上階を借し切りという方法も無くはない、むしろ常套ではあるが、物入りである。
質実剛健な、または赤貧洗うが如き劉家では、たとえそこが、中国語が通じない国であったとしても、一般宿泊客の顰蹙も買わず、警備上も大変簡便で、
人件費の面でも、ぞろぞろと、メイドまで連れてこなくても、フロントに頼めば、茶菓や軽食の程度ならば、来客に振舞うことも可能、あらたまった正餐ならば、外出すれば済む、却って安上がりな、こんな滞在方法が財布にも性分にも合っており、半ば外遊の際の習慣になっている。

「子龍、子龍、明日あそびにいく作戦のつづきしよ?」
と、子息は折りたたんでいた市街地図を広げながら、
空港に迎えに来ていた常山の好漢を、自室へ誘った。
子息は道すがら、ずっと、ガイドブックを片手に、楽しげに話していたのだ。
みどころが多すぎて、移動中には、明日一日ぶんの予定が立たなかったのである。
「父上、お仕事お疲れ様でした。おやすみなさい。先生も、おやすみなさい」
うきうきと、扉を閉めて部屋をあとにした。

自然に残された形になったのか、あるいは、自然と気遣われたのか分からないが、彼は、待ちわびた先生を目の前にして、
「おかえり」でも、「ただいま」でも、「いらっしゃい」でもない、不思議な感覚に、不必要な咳払いをして、先生を気遣う。
「・・・道中、疲れたであろう」
「いいえ、・・・あんなに、良いお席で」
「案ずるな、儂は、必要なことには金を使う」
本当に言いたいことを、巧みに、しかし明らかに、お互いに、ぎくしゃくと避け合っている。
奥には、大人一人だけが使うにしては大きすぎる寝室と水周りが続いており、
先生の荷物も当然のように、この部屋の奥へ運び込まれていた。

邸で暮らしている延長のように、彼はふたたび先生の旅の疲れを労うと、
奥で休むように勧めて、先生が淡く頷くのを見てから、皺の寄った頬を緩めて見せて、
「儂は、少し夜更かしをしてから眠る」
ソファーの前の低いテーブルに、まだ解けていない
蹄鉄に似た3Dパズルと、ブランデーのグラスが置いてあるのをみて、
(なにか、お考えごとが、ありなのだ)
先生は、大きな手には不似合いな器用さを隠し持つ彼が、
考え事をするときの癖の一つを知っている。
「それでは、お先に休ませていただきます」
「そうしなさい」
と言いながらまだ、腰掛けもせずに、パズルに一瞥も呉れずに、奥へ向かおうとする気配の先生を見つめている。

先生は、まだ空の上に體があるような、ふわふわとした感覚が聡明な頭の中に薄靄をかけたようになりながら、ふと思い当たり、
「お呼びくださって、本当にありがとうございました」
優雅に腰をかがめて、彼にあらためてお礼を言った。
「何を言うのだ」
彼は、掌を後ろ手にして、ゆっくりと近づいてくると、
「儂が、呼びたかったのだから」
何かが起こっても、全く不思議はない至近の距離で、二人は不自然に立ち尽くしていた。

その沈黙に先に耐えられなくなった彼は、ぎこちなく、右手の人差し指で先生の髪のひと房だけをそっと絡めるように撫でて、
「おやすみ・・・孔明」
瞬きもしないでじっと見詰めながら、もう一度、初めて仔猫に触るような具合で、また一度、黒い髪の表面だけを撫でるようにしてから、先生を見送った。


一人旅ばかりしていた過去を思い出すと、少年とはいえ、道連れと一緒に他愛のないことを話しながらの移動は、気が紛れて存外に良いものだったことと、
何より、彼の帰国をあのまま邸で待っている状況から救われた安堵感で、先生はほっとして、お湯で旅塵を落としていた。
(あっ)
洗面をしながら、思い出して、まだジェットエンジンの音が聞こえるような、少しぼやけた頭のなかで、忘れないように思い出した名詞を、先生は三度繰り返して、バスローブに腕を通した。

寝静まるはずの寝室のドアがノックされたとき、反射的に
「お入り」
と応えた彼は、大きな掌の中で、蹄鉄パズルを眺めて、勘所を探していた。がちゃがちゃと音を立てて力づくで捏ね繰り回して外すのは、邪道なのである。
グラスの中の酒は、あまり減っていない。
「・・・公叔、お邪魔いたします」
細く開いた扉の向こうに、小首をかしげた先生が覗いた。
「どうした、眠れぬのか」
「忘れておりました」
白いバスローブの上に、見慣れたモノトーンのガウンを羽織って、
長い裾を揺らしながら、先生が、近づいてくる。
「お考え事に、必要なものです」
くすくすと笑いながら、白い手が一本の耳かき棒を差し出した。
「おおっ、よくぞ覚えていてくれた」
彼は、蹄鉄パズルを投げ出し、そうなのだ、これを忘れてしまったのだ、長さといい重さといい手ごたえといい、考え事に、まことにちょうど良いのだ、
綿棒では、こうはいかんのだ。
と、少し先端の塗りが剥げた、愛用の耳かきを受け取った。

「なぜ分かったのだ。言わなかったが」
「何となく、です」
「急に、そなたらを、呼んだからか」
「それも、あるかもしれません」
「他には」
「電話のお聲かも、知れません」
三日前の、国際電話。
ここは朝で、むこうは夕方だった。

「・・・あの時、そなた・・・泣いておったな」
耳かきを持ってきてくれた先生を、
彼は座ったまま、我慢できずに長い腕で抱き寄せた。
「・・・なぜ、お分かりに」
「何となく、だよ」
「どうして、泣いていたと・・・」
先生が、頸にしがみついて、涙聲になってゆくのがわかり、
「ああ、いかん。続きは明日話そう、ゆっくり眠りなさい」
薄い背を擦って宥めてやっても、先生が頸を振って離れないので、すべすべとした、洗い立ての髪が頬を擽るので、彼は眉を困らせて
「聞き分けのない、悪い子め。公主抱(お姫様だっこ)でもせねば、ひとりでベッドにも入れぬのか」
頭を撫でて態と子供扱いしてから、やんわりと引き剥がそうとすると、
「そうなのです・・・悪い子、なのです」

巨きな耳のすぐ傍で、先生が拗ねたように囁いた。



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