後漢帝國大学附属小学校、夏期休暇中の全校登校日のことだった。
富豪の子女などは、海外へバカンスに出かけてしまっていて、登校率は悪い。

今世紀はとくに、地球的規模の異常気象で、夏場は特にこの都市も決まってスコールに見舞われることが多くなった。
その豪雨の中、さる王室と縁続きなので公叔と呼ばれる劉家の邸に、ちいさな傘がふたつ並んで、元気な声が響いた。

「ただいまーっ! 甘小姐、お友達つれてきましたー」
当主の彼の子息は、声紋認証自動的に開錠した玄関の古い木の扉をあけて、豪雨すら楽しいように、弾んだ声で帰宅を告げた。
「まあ、禅さま。この雨の中、お帰りだったのですか?」
「うん、学校出たときは晴れてたから、ゆだんしちゃった」

甘小姐は、公叔邸に派遣されているハウスメイドの一人で、今朝も子息に朝食を供したので、子息は、このメイドが邸に居ることを知っていた。
「ずぶぬれだったし、姜くんちは川向こうで、帰っても一人だから心配で、一緒にうちにひなんしてもらった」
「あらまあ、そうでしたか。さあさあ、早く」

姜少年は、二年も飛び級して転校してきた秀才である。
元は、さる名門私立小学校に通学していたのだが、父が不意に亡くなり、親戚の伝手を頼って、後漢帝大付属小の編入試験を受け、ずば抜けた成績で飛び級を果たした上に、学費免除で学んでいる。

雨天なので、甘小姐が既に用意していて差し出した一本のタオルを、子息は小さなクラスメイトにさっと手渡して、
「姜くんが先。ぼく、二歳も年上なんだから。タオルあるとこわかるし」
「禅くん、ぼく、あとでお借りするのに」
「父うえがよくいうよ『兄者のぎむにしてけんりである』って。だからいいの」

譲り合うその間に、甘小姐はリネン室へダッシュしてゆき、
古タオルを玄関に拡げ、乾いたバスタオルも更に二枚手にして、それぞれに手渡しながら
「さあ、かばんも置いて、お靴を脱いで。部屋履きをどうぞ。お二人ともシャワーをお使いになったらよろしいですわ。お着替えは、禅さまのをお借りしてよいですね? さあ、どうぞ」
てきぱきと応対する。
「お世話になります。お邪魔いたします」
姜少年は、深々とお辞儀をする。
「何をおっしゃいますの、禅さまのご心配は、わたくしどもの心配です。ご一緒でよかったことです。あとで、お家にご連絡なさっておけばご安心ですわ」

『子供のくせに、そんなことまで気にしない』
こんなときよく大人が言う言葉だ。
子供だから、母子家庭だからと、他人の憐れみなど乞うて生きてゆきたくないという、頑ななところが姜少年にはある。
気がつきすぎる大人びた聡明な少年は、このような;場合にありがちな、この類の言葉を癇に障るほど聞き飽きていたが、劉家の邸の者からは、これを聞いたことがない。
幼く、しかも、授業では出来が良い方ではないというのに、このようなときの子息の話し振りすら、どうであろうか。
『姜くんは、本当はまだ小さいんだから』
秀才を妬む輩は、優位に立たんとするときにそう嘯くものだが、
『ぼく、二歳も年上なんだから』
と、主語を置き換えられただけで、姜少年には両者の言わんとする内容は全く違って聞こえた。
おっとりとしたころや、弱きを助けようとする性格は、公叔の子息も父譲りといったところで、姜少年は劉家の邸の者となら誰とでも居心地がよく、良い意味で、好意に甘えるということを覚え始めていた。

甘小姐は料理が巧い。子供ひとり増えたぐらいで、ランチや三時のおやつについて悩むことは何もない。
バスルームへ向かう二人に、
「姜くんは、食べ物でアレルギーはありますか?」
と、今どきの子供について最も留意すべきことのひとつをすかさずチェックして、厨房に立つ。
(……遠慮深そうな子だったわね……。念のため、ハイリスクの小麦系はやめときましょう。やっぱり米よね。稲作万歳。すると、卵と乳製品も鬼門か)
と、ひとり楽しく鼻歌を歌いながら、
子供受けのよいパスタはやめにして、野菜を増量して、カラフルに作った卵なしのピラフをお碗で型を抜いて、お弁当用の楊枝の国旗を掲げ、朝一番で作っておいたラタトィユをガラスの器に盛り、これも朝に裏ごししておいたポテトの冷製ポタージュをとりわけながら、
(おやつは……。マンゴープリンならセーフかしらね)
早くも三時の算段をしながら、パイナップルのジュースと小さなグラスを二つ用意し、うきうきと、ワゴンを転がしていった。

ランチに降りてきた先生の目の前で、少年ふたりは三品をぺろりと平らげ、居間のテレビで気象情報を見ながら、雨に濡れてだるかったのか、満腹で眠気を催したのか、長椅子のあちらとこちらで、申し合わせたように、うとうとと、まどろんでしまった。

ややあって、姜少年はふと目が覚めた。からりとした綿毛布がいつのまにか掛けられて、大雨の中を帰って来たとは思えないほど、身体は軽い。
(そうだ、禅くんのお邸に、お邪魔させてもらったんだっけ)
雨は止む様子もなく、隙間風と、窓に水滴が叩きつけられる音が間断もなくつづいていた。
(雨の日は、キライだ)
憮然としたような表情で、眼をこすった。
「あれ、眼鏡……」
少年が呟くと、待っていたように、翡翠が転がるかのような澄んだ聲がつづいた。
「眼が覚めましたか」
軽い足音がして、
「ごめんなさい、怪我をしてはいけないので、外しておいたのですよ」
ローテーブルに白い手が伸びて、キラリと光るものを手渡され、
「ありがとうございます」
少年は、くちごもるように小声で礼を言った。
眼鏡をかけて見回すと、先生の白皙の貌が眼に入る。
『余所様の家の子が来るということは、命をあずかるということです。だから、母の留守に、お友達をあげてはいけません』
母がよく言っていることを思い出した。
それがたとえば、走り回って怪我の恐れがあるわけでもない、昼寝をする少年であったとしても、先生は、メイドの娘が心配なく仕事に専念できるように、二人の様子を見ている役を買って出たに違いない。

ランチの前にも、少年が劉家の固定電話を借りて、仕事中の母に留守電を入れたあとで、折り返しかかってきた電話をとって、
「雨があがりましてから、ご子息をお家までお送りいたしますので、ご心配になりませんよう。……いいえ、過日はご子息には母の日に智恵を分けていただき、こちらこそ日ごろから仲良くしていただけまして嬉しいのでございます」
と、電話口で恐縮する母に、ひとこと添えてくれたのも先生だった。

「ジラフィーは、大丈夫ですか」
先生は、他人の家で大人と二人になってしまった、気まずいような雰囲気を和らげるように、共通の話題を口にした。
ジラフィーとは姜少年の愛犬の名で、キリンのような斑模様の、珍しい姿をしている。
「大丈夫です。こんな日は、玄関にケージを作って家に入れます」
「お留守番もできるのですね。躾もよろしいのでしょう」
「父が、厳しく躾ていました」
「では、父上のおかげですね」
姜少年は、貸し与えられた半袖のTシャツから覗く両の肘を、さするような、不安げな仕草を見せた。
「寒いのですか? ここへおいでなさい」
先生は、冷房避けに使っている薄いブランケットを二つ折りにして少年を包み込んで隣に座らせた。

「……父上が亡くなったのは、大雨の日の夕方でした」
眼鏡の奥に涙目を隠して俯き、姜少年は人には言えないいまだに心の棘になっている出来事を、こじあけるように呟いた。
朝、いつもと変わりなく明るく笑んで、玄関を出た姿が最後で、その日仕事場で急に倒れ、姜少年にも母にも、心の準備も別れを惜しむ暇も許されなかった。いまだに信じられない日もあるぐらいだ。
「そうでしたか……」
先生は、自分の生い立ちになぞらえて少年の悲しみを共有しようなど、軽薄なことはしない。ただじっと、少年が語ることに耳を傾けている。
「いっぱい、聞きたいことがありました。
あの時、あんなに褒めてくれたのはどうしてか、あの時、あんなに怒られたのはどうしてか、……ぼくと母上をおいて、どうして急にいってしまったのか。その時は、ただ嬉しいだけ、怖いだけ、……かなしくて悔しいだけだったのに、あの時の父上に聞きたいことが増えていくばっかりです」
「お父上に、会いたいですね」
「会いたいです」
「会える日は、来ますよ」
「それは、いつかぼくが死んでしまったら、また父上に会えるということですか」

姜少年は、今も雨に濡れて一人ぼっちの父の墓を思った。
いまだに雨の日は、傘をさしに、走ってゆきたいほどの衝動に駆られる。
先生は、自分も数え切れないほど体験した色が抜け落ちた心象風景を感じて、ゆっくりと白い貌を左右に振ると、おだやかに語った。
「その会いかたではありません。それに、その会いかたは、天が計らうものですよ」
「……じゃあ、どうしたら会えるんでしょうか」
「勉学にお励みになり、お母さまを助けて……そして、立派に成長したある日、
『あの時、お父上はこのようなお気持ちだったのだろうか』
と、雨上がりの夕方にふと思い至る日が必ず来ます。あなたの心の中においでのお父上の俤と、再びお会いしてお話できる日が一日も早く来るように、心の中のお父上が窮屈でないように、心を寛く寛くなさることです。そして、お父上の許へゆくのは、一日でも遅いのが、親孝行ではありませんか。わたくしは、そう信じます」

『お父さんぐらいの年になればわかる』
皆が、一様に姜少年を慰める一言の常套句だが、先生の言葉には、似て非なるものがあるように思えた。
「あの……。禅くんから聞きました。先生は、小さい頃に家族とはぐれてしまったって。もうかなしくないんですか」
ひとりぼっちの悲痛を長年味わったはずの人から、どうすればこのように、天を怨まず、むしろ信じて、穏やかに癒すような言葉が出てくるのか、姜少年には想像の範囲外で、思わず立ち入ったことを聞いた。
「悲しいですよ。今でも。古来、時だけが薬といいますが……。たとえばこの詩の中で、何千年も前に歌った人の哀歓を思っては涙が出るように。道徳や価値観は時につれて変わりますが、情感というものは、それほどには変わらないものです」
父の俤に会える。それがあと十年かかるとして、その時、先生の手に指輪がなかったら、先生にあこがれるこの気持ちを告げても許されるだろうか。赤の他人なのに先生と一緒なら、何でも乗り越えていけそうな気がした。
姜少年は、膝に乗せた本を撫でて語る先生の、右手の薬指の指輪の煌めきをぼんやりと眺めた。
指輪の傍の本の背表紙には『詩経』と、金色で箔が押してある。姜少年はまだ、さわりしか知らないし、勉学として暗誦していることが重要で、情趣を味わうということまではわからない。

「たとえば虹は特別な条件下を除いて、雨のあとにしかみることができません。……虹をいくつも知っていて、なお微笑んでいることができたなら、誰かの心の雨すら晴らして、虹をかけることができるのではないでしょうか。わたくしは、そのような奇跡を起こす御方を、一人だけ知っています。かなしいのは消えませんが、分かち合ってくださるのです」
――公叔殿下は、心と心に虹の橋をかけるのだろうか。 だから先生は、このお邸に住んでいるのだろうか。
先生の透明な微笑を前に、姜少年は直感し、ここに居ないはずの、この邸の当主の気配に圧倒された。
(くやしいけど、ぼくはやっぱり、まだ子供だ)
「今日のこの雨のように、いつか必ず、あがるのです」

背後で、軽やかなノックの音がした。
「失礼いたします。みなさまお目覚めでしたら、お三時をおあがりになりませんか?」
「もう三時でしたか。そうですね、禅さまもお起こしして、いただきましょう」
「禅さま、ぜ・ん・さ・ま。おやつですよ。夜、眠れなくなりますよ」
「……うー……ん、むにゃ」
彼の子息が空気を読んで、狸寝入りをしていたことを、誰も知らない金曜日の午後であった。
雨はまだやむ気配もなかったが、先生の言うとおり、待っていれば必ずあがるのだ。
そして、もしかしたら彼の子息も、人の心に虹をかけうるのかもしれなかった。



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