彼は、部屋の鍵を持って、先生と連れ立ってドアを出ようとして、やはり名残惜しくてもう一度部屋へ半歩戻ると、続こうとした先生のほそいからだを抱き寄せて、邸の玄関ではさすがに憚られてできないほどの、長い長い口付けを交わした。

「……、遅れて、しまいます」
やっと離された先生は、よろけるところを扶けられながら、乱れた吐息を隠してようやくそう言って、白い貌を櫻色に染めて俯いた。
「ああすまん、今度こそ出かけよう」
色づいた頬を指の甲で撫でて優しげに笑むと、彼は先生の手を取って、エレベーターホールへ向かった。

一週間に2便しか飛行機が飛んでいない亜細亜の某地方都市での仕事を幾つか請け負ったものの、生憎、授業参観というものとぶつかり、そのような時の代理として常山の好漢を充てるのは良かったが、前後して次弟は三連覇がかかった射撃競技会の予選、三弟は消防署から請われての、救命救急講座の実技講師に招かれてしまっていた。

そこで彼は、先生を臨時秘書として連れて、3日前から、留守組三人の厳しい眼鏡に適ったこのホテルに二人で滞在して仕事に出ている。
実際に来てみると、現場で外国語が必要だったので、この人選は適切であったのだが、彼は、仕事だけでなく、この数日の暮らしに、実に満足していた。

長逗留ができるホテルのキングダブルの部屋で、邸の彼の部屋に次の間とキッチンが付いたような形で、頗る快適である。
調度は至って簡素で色気もないが、予算面、セキュリティ面は優れていて申しぶんない。否、部屋の快適よりも、一日中甘いようなこの仮住まいが、である。

二日目から
「せっかく、キッチンがあるのですから」
と、節約もかねて、先生は、仕事が夕方までに終わった日は、最寄の、パラソルも鮮やかなマーケットで食材を買って帰り始めた。そして、不思議なことに、ゴミは紙のパックや茶殻の類のみという、手品のような調理をしている。

早起きができた日は……やむを得ず、先生が起きられない原因を彼が作ることもあったのだが……、先生が茶を淹れ、粥を炊いて、葱を刻んで、小さな冷蔵庫から漬物や果物などを取り出して、軽い朝食の支度をする姿に、
彼はこのところ、胸が躍りっぱなしである。

普段、読書やピアノや、そして実験のような何かに集中している最中の先生に戯れかかることは、きっと先生に嫌われてしまうであろうと考えて、彼は己に厳しく禁じているので、シンクに向かって俯いて何かをしている先生を後ろから、
ガバと抱きしめたい衝動に何度も駆られながら
(落ち着け、年甲斐もないぞ、儂っ!)
と、内心で叱咤し、ソファでおっとりと新聞を読んだり、テラスから外の天気を見るふりなどをしていた。

先生は、料理に凝るタイプではないようなのだが、さすがに博識で、旬というものや食材の特性を良く知っている為か、野菜を色美しく茹で、自然な甘みを残した、素朴で、いかにも家庭料理という味わいの献立をととのえる。
昨夜など、彼は少々、食べ過ぎてしまい、既に習慣になりつつある皿洗いについて、
「食休みなさいませ」
と、腕を捲る先生を制して、
「ならん。お前の手は値千金じゃ。儂が洗う。お前が拭くのだ」
「でも」
「ならん。いま少し待て」
ソファに伸びてそう言い張ったので、
「水仕事と演奏に、因果関係はございませんよ」
と、先生に笑われてしまった。

邸でメイドサービスが作る食事や、仕事先でふるまわれるランチやディナーも
確かに美味いのではあるが、
(幸せ太りとは、このようなことで、引き起こるのであるな)
と、体感する毎日を送っている。
体重計には乗っていないが、この数日で確実に3~4キロ増えたような気がする。

先立った妻とは見合いで、其の頃は赤貧でもあったので、戀という感覚が発生する前に既に家族という趣で、そのうちに子が生まれ、生活に追われ、彼はこのようなことを経験していなかった。

欧州の音楽学校に居たらしい頃、先生にルームメイトなどは居たのだろうか、
そう思いつくや、ここに居もしないルームメイトにむらむらと対抗心が燃え上がりそうになりながら、
(いやいや、どちらかといえば、才能を妬まれて、遠巻きにされて一人だったのではないか)
すぐにそう考え至って、やはりまた抱きしめたくなってしまう。


迎えの車の後部座席に乗って、朝の街並を眺める先生の肩の辺りから、黒髪が一筋、するりと流れることにすら、どきりとする。
「今日も晴れてようございました」
「うん」
「あっ、白い鳩でございますよ。あんなに」
通りすがりの寺院の屋根から、白鳩が一斉に飛び立つ群れを見上げる先生の表情が、彼にとっての今の全世界である。

今日がホワイトデーであることにかこつけて、外へ食事に誘うもよし、花を贈るもよし、何でも先生は喜んでくれると思うのであるが、これといって名案も浮かばぬまま彼は、今はただ、隣の先生の白い横顔に見蕩れることにした。


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