月無龍啼星満天 (つきなくりゅうないてほしてんにみつ)

2009/10/02

うをとみづ3世紀SS

「・・・どうして居るのか、のぅ」

今上の叔父と尊ばれる彼は、ひとり、北風に靡く
旗指物が並んだ暗い楼臺の上で、江水の先を望んで独りごちた。
共にあるならば、彼の龍は天文を観ている筈の刻限である。

彼の掌中の珠玉たる龍は、危ういことに、
先般、彼を密かに害そうとした、あの者のすぐそばに、
いま現在も、其の身を晒しているのだ。
極めて不本意ながら、あたかも、同盟の質のように。

然りながら、ここから龍を連れ出して行った、
江東の、あの至って実直な重鎮の存在や、
彼の龍の、呉侯の信厚いと聞く長兄の目もあることを思い併せると、
心配ご無用、と、
あの日、莞爾と船に手を振って別れた彼の龍の、
余人の目に見えない成算を、辛くも裏付けて納得する。

巽の風とともに必ず帰ると、あの日、龍は約した。
冬季であるが、龍が吹くというのだから、吹くのだろうと、
彼は漠然と信じていた。

一別以来、幾千度目かの溜息をついて、
明日こそは、風が変わるだろうかと、
気落ちしながら、ゆっくりと江水に背を向けて、
冷たい石段を降りながら、その途中でふと、
あの新月の夜を思い出した。
大敗を喫して漸く一息つき、

やや暫くのち、江東から使者がやってくる、
其のほんの少し前の出来事だった。
天文を好む龍が、夜、彼の許へ戻ってくるのが遅かった。

(そうか、今宵は朔であったか)

月光のない夜空は、星がよく見える。
朔日の夜は、常よりも星を占っている時間が長いらしい。

概ね、龍の日課は心得ているつもりだが、
念を入れているのか、見るべきものが多いのか、
其れはよく分からない。

命からがら、逃げ込んだような格好の、
慣れはじめたばかりの、夏口の城の、
寂しく朽ちかけた暗い北面の楼臺に、供も連れずに、
彼は、ひとりで龍を迎えに登ってみた。

果たして、龍は微動だにせず無心に夜空を見上げていたが、
背後に、灯火と、他ならぬ彼の足音を察知したのか、
闇夜に黒黒とした装束の彼の龍は振り返り、
聲は届かなかったが、龍の唇は彼を呼んだようであった。

星を観た後に、おもに天下の趨勢についての所見を述べに
彼の私室を訪なう倣いの軍師を待ち侘び、
痺れを切らして、この朽ちかけた北面の楼臺へやってきた、
そう言ったなら、あの白い貌は、信じただろうか。

邪魔はせぬから、観終えたら呼べと命じて、
持ち運んできた灯火を手近な石積みの上に置き、
そぞろ歩きながら、城壁のなかに点々とともる灯火の揺らぎを眺め、
気まぐれな小さな流れ星などを偶然に見つけて暇潰しをしては、
彼は、星を占う軍師の横顔を偸み見ている。
邪魔せぬといいながら、邪魔をしているようなものだ。

(見込んだ以上に、我が君は、強靭にあそばす)
”先の戦の傷が元で、誰某が身罷った”
と耳にするごとに、みるみる双眸を潤ませながらも、
その都度、涙に暮れるまいと、彼が懸命に堪えているのを、
傍近くで龍は幾度も目撃している。

先の戦で、一敗地に塗れた彼は、
”死する日は同日”
と約した義弟に、決死の往来をさせ、
いま一人の末弟にも、ほとんど唯だ一騎で、
圧倒的な曹軍に対峙をさせ、
なおも、全身是胆と評して
絶大な信頼を寄せる股肱の将と
ただ一人の継嗣の生死を、長年連れ添った
夫人の命ひとつと引き換えにし、
また、夥しき巻き添えの兵と民の屍を築いて、
九死に一生、辛くもこの城へ逃げ込んだ。

死線を越えるたびに築く屍の山に、
一向に正当性を見出さず、人の死に慣れようとせず、
自ら進んで王道の苦行を負うような彼は、
満身創痍のくせに、愈愈、穏やかさを益した表情をして、
星を観る軍師を、見にきている。

悲嘆に暮れることのみが、仁に篤い証ではない。

流された血を嘆くのではなく、その血を無にすまいと、
彼は、ここぞと、天賦の運と力を踏んで、打たれるほどに強くなり、
あの曹軍に対して、敢然と仁王立ちせんとしているのだ。

龍がついていてこその強靭であるかもしれぬが、
天文を観る邪魔をされながら、龍は内心、舌を巻いて居る。

「赤い星は、消えておるな」
暗い夜景に飽きたのか、いつの間にか、
彼は龍の隣で、龍の視線の先のあたりを見ながら、囁いた。

自分の星はどこにあるのか
余人とともに夜空を仰いで其の者が、殖財、学問、諸芸そして天下に、
なにがしかの野心を持つ者とであれば、龍に訊かなかった者はない。

だが、彼は己の星を、龍に問わない。
然ばかりか、あの戦の前に出現した、
禍禍しい凶星と、夫人の死や敗戦に、
何の相関も因果関係も見出そうとしない、
たとえば、凶馬に平然と乗り続けるような、
いまどき珍しい、彼の一種の先進的部分に、
龍が白い額の中で満足しているのを、彼は知らない。

凶星の消滅という、可視の出来事のみならず、
主君たる彼に備わる天佑と、刻刻と変化するこの時機から、
遠からず、江東から新しい局面を齎す使者が
やってくるであろう兆しを、傍らで龍は静かに予言した。

其の翡翠のような聲を、巨きな両耳で沁み入るように聞いて、
その白皙の貌が、明るく瞬くような様子が双眸に映ったかと思うや、
俄かな風に、彼が石積みの上に残した灯りは吹き消され、
束の間の残像を残して、辺りは闇に沈んだ。

「これは、ちと困ったのう」
廊の灯りが届くところまで、この楼臺を降りるのが問題である。

ここに立哨の兵はおらず、階を隔てた余所に、
篝火を守って、等間隔に持ち場を離れず、
兵俑のように役目を果たしているのみである。
龍は夜目が利くのか、いつも灯りも持たずに
ここを昇り降りしている。

龍に灯りを採りにゆかせるか、
龍を頼りにここを降りるかの二者に、
要鎮深く渋る龍に構わず、彼は迷わず後者を択んだ。

煉の壁を背にして横歩きするような龍に掌を預け、
ぽつぽつと世間話をしながら、二人の影すら落ちない
真っ暗な石段を一段ずつ、龍のあとを追って降りてゆく。

其の段は一部磨耗して欠損している と、教えられたところで、
注意を払ったつもりが、見事に踏み外し、
彼は前のめりに滑落した。
石段が、あと数段であるらしいことと、
すぐ向こうに、廊の灯りが洩れていたのにも油断した。

落ちながらも、長い左腕を伸ばして
巻き添えとなるに違いない彼の龍を、右腕の中に護り、
咄嗟に其の巨きな右掌で、龍の後頭部を庇って、
床石へは左掌を伸ばした刹那、
其の分厚い頭蓋骨に、
ごつん、と、鈍い音と衝撃が届いた。

「お・・・痛かったであろう」
と、言いながら、ぶつかった彼の額も、くらくらとする。
存外に、龍の頭の方が、より硬かったのかもしれない。

冷たい石床に、ほとんど仰向けに倒れた龍のうえに
起き上がりながら、彼は、おろおろと、
「石頭なのじゃ、儂は」
と、言い添えながら、あの白い額を、とにかくも
一刻も早く撫で擦ってやるべく、手探りすると、
同様に、彼の額のあたりを探していたらしき軍師の
細りとした指先と出遭って、冷んやりと感じた。

触れる指先には、しっかりとした意思を感じるに反して、
反応の薄さに、其の半身を扶け起こしながら、
闇夜に双眸を凝らすと、
ときに抜き身の剣にすらも見える軍師の貌が、
まるで、何かを忘れ去ったかのようであった。
龍は、暗闇に慣れた双眸で、
降るような星空を背にした、主君の貌を見ていた。

彼は、暗闇に慣れきらない双眸のかわりに、
ひやりとした指先や衣を手がかりに、
軍師の額の無事を確かめている。

「大事無いか、孔明」
確かめるように揺り振ると、龍は我に返ったように微笑み、
珍しく、彼の長い腕に縋るような仕草を見せると、
呆けていた理由を、些か羞じらうように呟いたのだった。

「・・・我が天を、仰いでいたのでございます」

龍にとっては、つねに彼こそが、
思うが儘に雲を湧き起し、慈雨を呼ぶための天であると、
日ごろ脳裏にえがいているらしい、不可視な心象を、
図らずも、満天の渺茫たる星空すべての如き彼の姿を
視界一杯に呈されて仰ぎ見、選び選ばれた我が主君ながら、
この窮地も予兆も、そしてこの小さな事故も全て忘却して、
今はただ、すっかり見蕩れてしまっていた、
彼にはそう受け取れる左様な意味に続いて、
龍は、そう啼いた。

白磁のような耳朶を、夜目にも染めた我が龍の聲を聴き、
気の利いた言葉ひとつ発せ得なかったというのに、
朧にしか見交わすことが出来ない闇の中ですらも、
言葉に尽せぬ、通い合う思いは胸に募るばかりで、
彼は、階を踏み外したという、
不様なこの状況も忘れて、萬感を込めて龍の名を呼び、
唯唯、懐に彼の龍を密に擁することしかできず、
星影だけが見ている、一寸先は闇の中で、二人は暫し、
黙して互いの温もりを伝え合うばかりであった。

彼にとっては掛け替えのない龍は、いま、
たとえ姿は見えずとも、あの新月の夜と同じく、
龍の天空たるに足るらしき彼に棲んでいて、
しかも、彼が待ってさえいれば、巽風とともに、
必ず其の身も、彼の懐に、生きて還るのだ。

彼は、其の巨きな耳が、北風に悴むのも忘れて、
玄玄とした江水を背に瞑目してから、
昇ってきた時とは別人のような足取りで、楼臺をあとにした。