一片冰心在王懐 (いっぺんのひょうしん おうのふところにあり)

2010/05/15

うをとみづ3世紀SS

今上の叔父の、義理の甥の窮地を救う妙案を献じて、
黒い文官の姿をした一条の龍は、新野の城に帰ってきた。

まっすぐに、主君たる彼の私室へ向かい、
目通りを請うて、
「ただいま戻りました。お加減はいかがでございますか」
長椅子に臥している彼を拝して見舞った。

昨日の朝、彼は俄かに腹痛を訴え、
つい先日に受けた甥の招宴の答礼に、名代として
掌中の珠玉たる彼の龍を、差し遣わしたのであった。

其れは表向きの口実で、万策尽き果てて孤立無縁な甥に、
龍が知恵を授けるよう仕向けるための、
彼が首謀して甥に実行させた、小さな罠だった。

さすがの龍も、この罠にはかかろう、
まさか、主君に嵌められるとは思って居まい。
確信に近く、そう思った。

しかし、この罠に気付いた後、彼の龍は、どうしただろうか。
気分を害して、頑なに口を噤んだりはしなかっただろうか。
それを気に病んで、彼はやはり昨日と同じく
胃の腑をきりきりと痛めながら、横たわって待っていた。

「む、ご苦労であったな、まずは首尾を聞こうか」
ごそごそと、上掛けを腰の辺りまで引き下げて、
横たわっていた長椅子に座りなおし、彼は神妙に、白い面を窺がう。

かいつまんで、襄陽でのことの報告をうけて、彼は、愁眉をひらき、呵呵と大笑すると、
「お前のお陰でもう、治ってしまった」
勢いよく、長椅子から滑り降りた。

「お前の強情さは、もう概ね分かっているつもりじゃ。
一体、どうしたら琦君に献策してもらえようかと、思い詰めたら、本当に腹に来てしまったのだ。仮病ではないから、許せとは言わんぞ」
「あ・・・」

強靭なはずの、胃の腑が痛むほどに、
我が主君はこのことを心から悩んでいたのかと、
己の酷薄さに、龍は滅入りそうになる。

「大事な軍師を罠に嵌める主になど、もう呆れて物が言えぬかな」
「いいえ、決して」
今、どんな貌をしていようか、きっと妙な表情をしていよう、と
無性に恥ずかしくなり、白い羽毛扇で、そっと口元を覆う。

「丸一日寝ていたら腰が痛い。孔明、ちと、付き合え」
寝衣に愛用の蒼い衣を引っ掛けて、素足に沓を履くと、
世話を焼こうとする侍従たちを押しとどめ、軽やかに扉をあけて誘った。

初夏の日はまだ高く、日差しは日増しに強くなってきている。

彼は、風のわたる楼へ登ろうか、迷ったが、
途中の階が、龍に不細工な罠を思い出させることを嫌って、
やはり見慣れた庭を巡ることにした。

「そうか、琦君は、江夏にゆかれるか。誰が思いつこうか。儂は嬉しいぞ」
喜ばれ、褒められるほどに、ばつのわるい龍は、
何も言えずに俯いて付き従っていたが、
不意に、大きな両の袖に、耳や首筋のあたりまで
すっぽりと覆われた。

「しばし、動いてはならんぞ。蜂じゃ」
警戒が、蜂に聞こえてはいけないように、彼は、腕の中にちいさく囁いた。
「蜜蜂でございましょう、滅多なことでは刺しますまい」
「わからんではないか」
龍を蜂から庇いながら、
彼はふと、うろ覚えの故事を思い出していた。

(あれは、何であったか、晋の王の寵姫か、故意に蜂を呼んで謀略を遂げるために、 どこかに蜂蜜を塗っていた、というくだりであったか)

しかし、彼の龍は、そのようなことをする必要がない。
さきほどから、白や黄色の胡蝶が、龍の袖や裾を慕っては、
羽を休めていたことも、黙って見ていた。

櫛目の通った髪の油か、それともこの懐中の香嚢の薫りか、
わからないが、龍を花だと勘違いして
つきまとう蜂が、彼にはいささか滑稽であった。

(これが花ならば、生憎、儂の為だけに咲いておるのだぞ)
一寸の虫相手に、なんとなく凄んでみせる。
蜂は、花ではなく龍であったことに気付いたのか、
それとも彼の剣幕に恐れをなしたか、
何度か袖に体当たりをしたあと、いずこへともなく飛び去った。

「そなたを、こう、無心に庇えてよかったと思うぞ」
大きな袖に包まれた長い腕を解きながら、
笑い皺を目尻に深く刻んで、彼は言った。

「もし、琦君の懇願を袖にして帰ってきたのなら、
いま蜂に刺されてしまおうが、不憫にも思わなかったかも知れん。
……罠にかけておきながら、酷い主人じゃな」
「酷い、などとは」

酷いのは、己の方だった。酷いの一字では足りない。
恐ろしいまでに冷ややかでもあった。その冷酷さから龍を救ったのは
彼なのだ と、思いつつ、我が王の貌を眩しく仰いだ。

「荊州のこと、『刺されてしまえ』とさえ
 考えておりましたわたくしには、罠ではなく……罰が相応でございました」

きっと彼は、あのように言いながらも、
”罰に刺されてしまえ”とまでは、思わないのだ。
また、龍かわいさの余り、蜂を打ち据えてしまおうとも思わないに違いない。
否、思い至りもしないのだろう。

あたたかに柔らかく庇われた寛き袖の中で、何も言われずとも、
そして、草庵を出てから今まで、ずっと傍近くで暮らして、
分かり切っていたはずの、これらのことを、龍は、
闇夜の望月を仰ぐように感じるとともに、
まだ、彼の懐に庇われているような錯覚を覚え、
(やはり、この御方に、生涯お仕えするのであろう)
もとよりそのつもりで、草庵を出てきたのだが、
忠、という概念以外の、何かを感じずにはいられなかった。

「よしよし、相子にいたそう、罰を与えるかわりに、罠にかかってもらった。
……お前には、同じ手は二度と通用すまいがな」
大きな掌で、とんとんと、龍の肩の辺りを
暖めるように叩いて、
「儂とおると、おそらく今後も、斯様に一々、遅遅として進まぬぞ ・・・と、言わずとももう、分かって居ろうが、構わぬのか」
「よいのです」
龍の頬に、珍しく笑窪を認めて、彼も
「そうか」
と、微笑を返した。

「どんなに遠い回り道でも・・・我が君とならば」

彼は、無心に龍を庇えたことではなく、
龍が、彼の袖の中を嫌がらず、大人しく、
むしろ、これより後は、彼の思うが儘に従いたいという意思すら
垣間見えたような、今しがたのことを、じわりと覚え、
此度、罠にかける以外の方法は、
本当になかったのだろうか と、寛き胸を少しく痛めた。

「ならば、罪滅ぼしに、時々は背負うてやろうかの。道のりは長い」
「……背負われた若造の軍師になど、皆、従いませぬ」
「そうかな?試しに背負われてみぬか」
「御戯れを」
仲直りのつもりで出かけた散歩で、
其れが、はじめから必要なかったことに気付いて、彼は安堵と満足を感じていた。

龍も、なぜあのような安手の罠に、容易くかかってしまったのか、
そして、なぜ蜂のごときも忽せにせずに、
王の寛き懐が、躊躇いもなく与えられたのか、
その理由の幾つかに、いささか動揺しながらも、
春の陽光のような、いつの日か必ず王たる彼の、
衒いのない笑顔に、釣り込まれて笑みを返した。

この一件のことで、互いに全く別な理由と状況のもとで、
晋の献公にまつわる故事を、相前後して頭にえがいた事実を、
二人は知らない。