「おお、的盧でかした。見つけたぞ」
今上の叔父に似つかわしくないような簡素な出で立ちに、
立派な巨きな耳を左右にして、龍の主君は嬉しげに、
城内の大通りの真ん中で、馬上から笑みを投げかけた。
「お一人とは、お危のうございます」
若やいだ、淡い色の平服を纏った龍は、思いがけない、
そして聴き違うべくもない其の聲に、振り返るやいなや、
珍しく、いささか慌てた色を白い貌に刷いてから、
急いで歩みよって馬の轡を捉える。
「案ずるな、お前とあ奴のお陰で、荊州は平穏じゃ。
それに、的盧は駿足ではないが、賢い。
お前の方こそが、供も連れずに、無用心であるぞ」
暗に、護衛を撒いてきたような口ぶりに、
龍は少しく眉を曇らせる。
「……さては、鳳兄」
「まあ、半ば仕向けられたともいえるが、
もう半分は、儂の意思じゃよ」
彼はひらりと、愛馬から降りると、手綱をとって、親しく歩み寄る。
「儂が、どこへ行きたいのか、的盧にはお見通しだ。のう」
伯楽にも凶馬、凶馬と、口を酸っぱくして諌められるというのに、
一向に気にも留めずに愛乗している馬の鼻面を、大きな手で
功を労うように、優しく撫でて、幇助者に話しかけている。
「我が君、あまり巧くないのです。なぜなら、ほどなく」
「うん?」
天から、まばらに、雨雫が落ちてきた。
「一時、激しい雨となりましょう」
「おお、それは困ったな」
彼は、発した言葉ほどには困った表情を見せずに、
「小降りの内に、雨宿りをせねばならんな。然しお前は読んでいたのだろう。
其処へ行こうではないか」
傘もないこの状況で、彼はうきうきと、龍に言うのであった。
「意外であるな、お前がこのようなところに用があったとは」
ところは、少しさびれた廟である。
廟の裏手に、歪で巨大な瓢箪を割ったような容器を井戸端に目ざとく見つけて、
彼は腕まくりをすると、手早く井戸から水を汲んで、可愛い凶馬に水を与える。
「左様なことは、わたくしが」
と言う龍を制して、
「これ。儂の楽しみを奪うか」
少しでも背が軽くなるよう、鞍を外してやり、本降りになる前に、
庇の下へ匿おうと考え至ってから、
(さては、的盧のために、行き先を変えおったな)
彼は、察知した。
「……とまあ、そういうわけでな、あ奴は、本気を出している姿を、儂に見られるのが、どうも好かんようでな、半分、追い出されたような 格好じゃな、照れ、なのかのう。面白き奴じゃ」
廟の階に並んで腰掛けて雨宿りをしながら、楽しげに、
鳳の噂話をまじえて、事の経緯を聞かせる。
彼の龍が、前もって、私用で半日の休みを請うていたので、
次席の鳳が、事を処することも決まっていた。
しかし、緊急を要する事はひとつも無いので、
橋の修繕の普請の進捗でもご覧になっては、と、勧めるような口調に、暗に強制的な外出を促されて、彼は、執務室から追い出されてしまったのである。
「困ったお人です。橋の方角へ、わたくしが来ていることを知った上で。鳳兄というお人は」
”ご主君のおもりは、おぬしの役目じゃ。わたしは御免蒙る”
とでも言いたげな丸顔が目に浮かぶ。
「そう、あ奴を責めるでない」
それに乗ずる、主君も主君である。
あの馬の凶相と、乗り手の耳の並外れた巨きさを、
見るものが見れば、其れが誰なのか、一目瞭然である。
ごろごろと、遠雷をききながら、彼はふと思い出して、
「ちと、『雷のせいにせよ』と、言うてみてくれんか」
と、謎謎のようなことを言った。
龍は、主君の突飛な発想による話し方に、既に慣れているので、
命令口調が些か不敬には思ったが、鸚鵡返しに、そのように言葉を発してみた。
彼は頷いて、指を折りながら、
「建安三年の頃というたら……そなた、いくつであったかな」
「十七、八で、ございました」
「ふむぅ、そうであったか」
隣に腰掛ける龍の、青春の頃は、どのようであったのかと、
しばし、秀でた白い額を見つめてから、
「その頃な、儂は、雷に救われて、九死に一生を得たことがある」
蓋世の将を破り、乱世の奸雄といわれる男の意向によって、
帝に拝謁し、皇叔、と敬われるようになった、梅の果の実る頃、
痛い肚を探られ、あわや、企てが露見するかというところで、
見計らったような落雷に、胆の小ささを装って、辛くも虎口を脱した。
「あの時、雷雲を呼んでくれたのは、お前だったのであろう」
「わたくしでは、ございません」
「そうかな、儂は、勝手に、そなただと思っておるよ」
「天の計らいでございましょう」
「儂の耳は伊達ではないぞ。龍の聲も、ちゃんと聴こえておるつもりだぞ」
「まさか、ひよっ子に、何ができましょう」
「若くとも、龍は龍であろう。……雛ならば、さぞ可愛かろうな」
「長じた今では、可愛くございませんか」
彼は、いつもこのような時、白い羽毛の扇で隠されてしまう口元が、
優美な曲線を描いているのを間近に見て、
釣られて口を衝いて出そうになった言葉を、
年甲斐もない、と、慌てて丸ごと呑み込んで、
(言わずとも分かっておろうが、この策士め)と、視線に言わせ、
「言うたな、これ。儂は、三度目以降は、お前が必ず仕えてくれると、
信じて疑っておらんかったのだぞ」
態と、話題を元に戻してやった。
「我が君も、お人が悪うございます。起してくださいませんでした」
「おや、儂を試みていたのではなかったのか」
「お戯れを。あのお二人にいたくご不興を蒙ったのは、其れもございましたのに」
「そうだな、お前の狸寝入りは、儂ほどは、巧うない」
温厚な眼差しに、じっ、と見詰められ、實に、あまた思い当たる節のある龍は、
幾つ知られてしまっているのかと、内心うろたえて、
(穴があったら入りたい、とは、このような時の為の言葉だ)
と、降雨を追うふりをして、微かに視線を泳がせた。
「小降りになってきたのう、・・・そうじゃ、用事は済んだのか」
「今日でなければならないことは、済んでおります」
「後回しにしたものがあろう」
「後日で、良いのです」
龍は、馬を牽いていっては顰蹙を買うような、細い胡同の突き当たりの、
気難しくて腕の立つ鍛冶屋に、雨宿りがてらに会いに行きたかったのだが、
急ぐ用事ではないのだ。
彼は、ふむ、と、やや思案顔で龍を覗き込んでから、
愛馬に鞍を置き、ひらりと乗ると、
「ほれ」
大きな掌を、馬上から差し出し、左の鐙から足を外した。
乗れという意味だ。
「……どうかお許しください」
「お前は今日、軍師を休んでおるではないか。詰まらぬ遠慮をいたすな」
「休みを請うても、骸骨は請うておりません」
臣は臣、そう言いたいようである。
「お前が居らんと、飯が美味くない。君命である」
彼は、平素、主命を嵩に着ることなど、ほとんど無いのだ。
其れを、このような時に、このような些細な事で發するとは、
一体どんな理屈が、この仁君の中で成立しているのか、
まことに不可思議なことの一つである。
しかも、彼は、せめて後ろに乗って隠れていたい龍を、前に乗せて
「前が見えたほうが楽しかろうが」
と、長い両の腕で、ほそい體を大事そうに囲んで、嬉しげにしている。
諦めて、明日の天気を占おうと、馬上から西の空を見ている龍の横顔へ、
彼は、
「孔明、虹じゃ」
子供のように弾んだ聲と共に、東の空を仰ぐように促した。
「そういえば、お前と虹を見るのは、初めてかな。今日は、佳いことが増えた」
彼は、至極、満足そうな笑みを浮かべた頬を、白い額に、
触れ合うほど近くにして、目尻に優しげな皺を寄せると、龍は少し戸惑い気味に、
透き通るような微笑を返して見せた。
(龍は、嬉しいときには、天に虹を架けるのかも知れん)
もしも、そうであるならば、彼は、龍にこの先、幾つも、幾重にも
虹を架けさせねばなるまい。
虹は、悲しい哉、雨が降らねば架かる道理がないのであるが、
成るべくならば、龍が身を粉にして慈雨を降らせるその数に近く、
たとえ誰ひとり見ていない、虚空の片隅にであったとしても。
そして、虹の橋は、雲や霧のように、踏み得ないものかもしれないが、
この龍と共にであるならば、あるいは、いつの日か、
手を取り合って渡ってしまえるような予感すら、彼の心を淡く掠める。
(それとも、虹は常に架かって居るのに、龍は人目を憚って、隠しておるのかな)
そう思いつくと、些か自惚れが過ぎるようではあるが、
これほどに打ち解けているにもかかわらず、
王に狎れてはならないという自制を忘れぬ、
いかにも我が龍に似つかわしい禁慾的なふるまいのようであり、
彼は、虹と、龍とを、しばし見比べて、まるで心の中に
七色の橋が架かったような、まばゆい想いに寛き胸を盈たしていた。
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註:3世紀にはまだ存在が裏付けられていないとみられる馬具が
出ておりますが、おとぎばなし の おとぎばなし たる所以と
おめこぼしください。
今上の叔父に似つかわしくないような簡素な出で立ちに、
立派な巨きな耳を左右にして、龍の主君は嬉しげに、
城内の大通りの真ん中で、馬上から笑みを投げかけた。
「お一人とは、お危のうございます」
若やいだ、淡い色の平服を纏った龍は、思いがけない、
そして聴き違うべくもない其の聲に、振り返るやいなや、
珍しく、いささか慌てた色を白い貌に刷いてから、
急いで歩みよって馬の轡を捉える。
「案ずるな、お前とあ奴のお陰で、荊州は平穏じゃ。
それに、的盧は駿足ではないが、賢い。
お前の方こそが、供も連れずに、無用心であるぞ」
暗に、護衛を撒いてきたような口ぶりに、
龍は少しく眉を曇らせる。
「……さては、鳳兄」
「まあ、半ば仕向けられたともいえるが、
もう半分は、儂の意思じゃよ」
彼はひらりと、愛馬から降りると、手綱をとって、親しく歩み寄る。
「儂が、どこへ行きたいのか、的盧にはお見通しだ。のう」
伯楽にも凶馬、凶馬と、口を酸っぱくして諌められるというのに、
一向に気にも留めずに愛乗している馬の鼻面を、大きな手で
功を労うように、優しく撫でて、幇助者に話しかけている。
「我が君、あまり巧くないのです。なぜなら、ほどなく」
「うん?」
天から、まばらに、雨雫が落ちてきた。
「一時、激しい雨となりましょう」
「おお、それは困ったな」
彼は、発した言葉ほどには困った表情を見せずに、
「小降りの内に、雨宿りをせねばならんな。然しお前は読んでいたのだろう。
其処へ行こうではないか」
傘もないこの状況で、彼はうきうきと、龍に言うのであった。
「意外であるな、お前がこのようなところに用があったとは」
ところは、少しさびれた廟である。
廟の裏手に、歪で巨大な瓢箪を割ったような容器を井戸端に目ざとく見つけて、
彼は腕まくりをすると、手早く井戸から水を汲んで、可愛い凶馬に水を与える。
「左様なことは、わたくしが」
と言う龍を制して、
「これ。儂の楽しみを奪うか」
少しでも背が軽くなるよう、鞍を外してやり、本降りになる前に、
庇の下へ匿おうと考え至ってから、
(さては、的盧のために、行き先を変えおったな)
彼は、察知した。
「……とまあ、そういうわけでな、あ奴は、本気を出している姿を、儂に見られるのが、どうも好かんようでな、半分、追い出されたような 格好じゃな、照れ、なのかのう。面白き奴じゃ」
廟の階に並んで腰掛けて雨宿りをしながら、楽しげに、
鳳の噂話をまじえて、事の経緯を聞かせる。
彼の龍が、前もって、私用で半日の休みを請うていたので、
次席の鳳が、事を処することも決まっていた。
しかし、緊急を要する事はひとつも無いので、
橋の修繕の普請の進捗でもご覧になっては、と、勧めるような口調に、暗に強制的な外出を促されて、彼は、執務室から追い出されてしまったのである。
「困ったお人です。橋の方角へ、わたくしが来ていることを知った上で。鳳兄というお人は」
”ご主君のおもりは、おぬしの役目じゃ。わたしは御免蒙る”
とでも言いたげな丸顔が目に浮かぶ。
「そう、あ奴を責めるでない」
それに乗ずる、主君も主君である。
あの馬の凶相と、乗り手の耳の並外れた巨きさを、
見るものが見れば、其れが誰なのか、一目瞭然である。
ごろごろと、遠雷をききながら、彼はふと思い出して、
「ちと、『雷のせいにせよ』と、言うてみてくれんか」
と、謎謎のようなことを言った。
龍は、主君の突飛な発想による話し方に、既に慣れているので、
命令口調が些か不敬には思ったが、鸚鵡返しに、そのように言葉を発してみた。
彼は頷いて、指を折りながら、
「建安三年の頃というたら……そなた、いくつであったかな」
「十七、八で、ございました」
「ふむぅ、そうであったか」
隣に腰掛ける龍の、青春の頃は、どのようであったのかと、
しばし、秀でた白い額を見つめてから、
「その頃な、儂は、雷に救われて、九死に一生を得たことがある」
蓋世の将を破り、乱世の奸雄といわれる男の意向によって、
帝に拝謁し、皇叔、と敬われるようになった、梅の果の実る頃、
痛い肚を探られ、あわや、企てが露見するかというところで、
見計らったような落雷に、胆の小ささを装って、辛くも虎口を脱した。
「あの時、雷雲を呼んでくれたのは、お前だったのであろう」
「わたくしでは、ございません」
「そうかな、儂は、勝手に、そなただと思っておるよ」
「天の計らいでございましょう」
「儂の耳は伊達ではないぞ。龍の聲も、ちゃんと聴こえておるつもりだぞ」
「まさか、ひよっ子に、何ができましょう」
「若くとも、龍は龍であろう。……雛ならば、さぞ可愛かろうな」
「長じた今では、可愛くございませんか」
彼は、いつもこのような時、白い羽毛の扇で隠されてしまう口元が、
優美な曲線を描いているのを間近に見て、
釣られて口を衝いて出そうになった言葉を、
年甲斐もない、と、慌てて丸ごと呑み込んで、
(言わずとも分かっておろうが、この策士め)と、視線に言わせ、
「言うたな、これ。儂は、三度目以降は、お前が必ず仕えてくれると、
信じて疑っておらんかったのだぞ」
態と、話題を元に戻してやった。
「我が君も、お人が悪うございます。起してくださいませんでした」
「おや、儂を試みていたのではなかったのか」
「お戯れを。あのお二人にいたくご不興を蒙ったのは、其れもございましたのに」
「そうだな、お前の狸寝入りは、儂ほどは、巧うない」
温厚な眼差しに、じっ、と見詰められ、實に、あまた思い当たる節のある龍は、
幾つ知られてしまっているのかと、内心うろたえて、
(穴があったら入りたい、とは、このような時の為の言葉だ)
と、降雨を追うふりをして、微かに視線を泳がせた。
「小降りになってきたのう、・・・そうじゃ、用事は済んだのか」
「今日でなければならないことは、済んでおります」
「後回しにしたものがあろう」
「後日で、良いのです」
龍は、馬を牽いていっては顰蹙を買うような、細い胡同の突き当たりの、
気難しくて腕の立つ鍛冶屋に、雨宿りがてらに会いに行きたかったのだが、
急ぐ用事ではないのだ。
彼は、ふむ、と、やや思案顔で龍を覗き込んでから、
愛馬に鞍を置き、ひらりと乗ると、
「ほれ」
大きな掌を、馬上から差し出し、左の鐙から足を外した。
乗れという意味だ。
「……どうかお許しください」
「お前は今日、軍師を休んでおるではないか。詰まらぬ遠慮をいたすな」
「休みを請うても、骸骨は請うておりません」
臣は臣、そう言いたいようである。
「お前が居らんと、飯が美味くない。君命である」
彼は、平素、主命を嵩に着ることなど、ほとんど無いのだ。
其れを、このような時に、このような些細な事で發するとは、
一体どんな理屈が、この仁君の中で成立しているのか、
まことに不可思議なことの一つである。
しかも、彼は、せめて後ろに乗って隠れていたい龍を、前に乗せて
「前が見えたほうが楽しかろうが」
と、長い両の腕で、ほそい體を大事そうに囲んで、嬉しげにしている。
諦めて、明日の天気を占おうと、馬上から西の空を見ている龍の横顔へ、
彼は、
「孔明、虹じゃ」
子供のように弾んだ聲と共に、東の空を仰ぐように促した。
「そういえば、お前と虹を見るのは、初めてかな。今日は、佳いことが増えた」
彼は、至極、満足そうな笑みを浮かべた頬を、白い額に、
触れ合うほど近くにして、目尻に優しげな皺を寄せると、龍は少し戸惑い気味に、
透き通るような微笑を返して見せた。
(龍は、嬉しいときには、天に虹を架けるのかも知れん)
もしも、そうであるならば、彼は、龍にこの先、幾つも、幾重にも
虹を架けさせねばなるまい。
虹は、悲しい哉、雨が降らねば架かる道理がないのであるが、
成るべくならば、龍が身を粉にして慈雨を降らせるその数に近く、
たとえ誰ひとり見ていない、虚空の片隅にであったとしても。
そして、虹の橋は、雲や霧のように、踏み得ないものかもしれないが、
この龍と共にであるならば、あるいは、いつの日か、
手を取り合って渡ってしまえるような予感すら、彼の心を淡く掠める。
(それとも、虹は常に架かって居るのに、龍は人目を憚って、隠しておるのかな)
そう思いつくと、些か自惚れが過ぎるようではあるが、
これほどに打ち解けているにもかかわらず、
王に狎れてはならないという自制を忘れぬ、
いかにも我が龍に似つかわしい禁慾的なふるまいのようであり、
彼は、虹と、龍とを、しばし見比べて、まるで心の中に
七色の橋が架かったような、まばゆい想いに寛き胸を盈たしていた。
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註:3世紀にはまだ存在が裏付けられていないとみられる馬具が
出ておりますが、おとぎばなし の おとぎばなし たる所以と
おめこぼしください。