ようやく、ときどき朝晩が凌ぎやすくなってきた。
魏討伐も五度目を数え、この夏の酷暑と長陣が障ったのか、
丞相はすっかり食が落ちてしまい、四輪車に乗ることが多くなった。
否、
車に乗ることすら、辛そうに見受けられる。
其れは、今日の夕餉をととのえて、
天水の若き麒麟児が、敬慕してやまない丞相の幕舎へ、
手づから膳を運んでいく途中での事だった。
「丞相は、食が落ちたのう」
「誰だ」
不意に、背後から、耳慣れない声を聴き、
膳の水平を保ったまま、きっと振り返る。
そこには、おっとりとした初老の男が立っていて、
夜目にも温雅な、人懐っこい笑みを湛えて、
蒼みの多い、異様に袖の長い衣を纏っていた。
丞相の容子が優れぬことは、陣中でも機密なのだ。
見慣れないこの男は、何処の誰か。
間者にしては、歳が行きすぎているが、
麒麟児と謳われる若者は、警戒を解かずに男を問い質す。
「どこの隊の者か。見慣れない顔だ」
「はは、さすがは丞相が選んだ側近だな。厳しい」
「ここを何処だと心得る」
「丞相の、幕舎の前だろう」
「無礼者。お召しも御用も無く近づいてはならぬ」
「用か、有るともいえるし、無いともいえるな」
「怪しい。何奴」
若者が、今にも膳を投げて剣の柄に手にかけそうな
怒気を発したのを。初老の男は大きな手で宥めるように制して、
「これ、これ、丞相の夕餉を粗末にいたすな」
『丞相』という言葉に弱い若者は、出鼻を挫かれたように、
膳の上の、蓋で覆った小皿の数数を見て、やや気を鎮めた。
「心配じゃのう、かというて、代わりに食うてやる訳にもいかん」
男も、膳の上を覗き込んで、心から案じているような
しんみりとした声音を続ける。
「用事はの、よく食い且つよく眠れというようなことだが、
……どちらも、出来ておらんのだろう」
丞相の容態を見透かされている。
この男は、道士か、仙人か。仙神にしては、やや俗っぽい。
「何かよい手立てがあると申すか」
「無いでもない」
「早く申せ」
「ああ、その前に、早う、飯を持ってゆけ。あれは猫舌じゃから、
羹は丁度よかろうが、他は温かいうちがよいぞ」
「よし、其処に待って居れ」
そう言いつけて、麒麟児は幕舎の幔幕をくぐりながら、
(丞相を、『あれ』とは、無礼ではないか)
また、沸沸と憤りが湧いたものの、
奥に横臥している人の白皙の貌が近くなるにつれて、
今しがたの出来事も、急に薄れてゆく。
丞相は病は得ても、老化というものとは無縁で、
さすがに髪には白いものも混じってはいるが、
立っていても、座していても、こうして臥していても、
兎に角、品が良いの一言に尽きる。性別や年齢の色が希薄である。
神々しいような、ひとつの天性が人の形をしているような具合だ。
この若者は、屡屡、この白い貌立ちをした総帥と、
歳が廿も離れている事を忘れかけてしまう。
「伯約、おかわりを下さいますか」
「はい」
箸や匙の上げ下ろしも大儀そうに、寝台の上に起きあがって、
細細と膳を進めている丞相の、翡翠の転がるような聲に乗せた
いつもの言葉を耳にして、若者は、ほんの一口の粥の小皿を差し出す。
(はたしてこれを、おかわりと言えるのだろうか)
丞相の習慣なのだろうと思って、言われる通りに
食を扶けているのだが、理に適ったことしかしない、
無駄を好まないはずの丞相にしては、
この「おかわり」は、妙な癖だと、ずっと思っていた。
「ありがとう」
そして、おかわりの皿を受け取るとき、
丞相は、いつもの丞相ではないような、甘いような色を眸の奥に刷くので、
はじめは、自分に対する何らかの感情の表れかと、勘違いをしかけたのだが、
(何か、思い出のような、御家の習慣への、郷愁のようなものか)
と、麒麟児は推測していた。
(或いはあの男、諸葛家の縁者か)
丞相の起居を良く知っているような、あの口ぶりに、
思い当たって、やや腑に落ちたように、安心する。
給仕を終えて、服薬を手伝い、
丞相がまた寝台に横たわるのを扶けて、
若者は幕舎を辞去した。
(や?あの男は?)
膳を運んできたときに現れた、男の姿がなかった。
(待って居れと、命じたたというのに)
下知を無視された軽い苛立ちを感じながらも、
丞相の縁者かもしれないという推測に、その感情を抑え、
警護の兵に穏やかに問う。
「これ、先刻、ここに居った男は何処へ行った」
「男? でございますか? 将軍でしょうか、兵卒でしょうか」
「鎧うてはいなかった。蒼い衣を着ていた。文官だろうか。五十くらいの」
「夕方から、姜将軍の他、誰も来ておりません」
「そんなはずはない。御膳を運んできたとき、私の後ろに居ただろう」
「将軍お一人でした」
皆、『お一人でした』と口をそろえる。
(物の怪か)
あまり言い立てて、『姜将軍には何か憑いた』との風聞でも流れて
士気を下げても芳しくないので、
「そうか、私の勘違いだったかな」
と、口を濁して立ち去る。
まるで小鳥一羽が啄ばんだ後のような膳と一緒に、
足取り重く、陣中を歩んで食器を返却し、丞相の傍へ戻ろうとすると、
目の前に、先ほどの男が現れた。
「あっ・・・。何処へ行っておった。待って居れと言いつけたはず」
詰りながらも、
(丞相のお身内であったら、無礼は私の方かもしれない)
と、語気が弱くなっていく。
「ちょっとな、覗き見をしておった」
「どこをだ」
「兵糧は足りているかを、だよ」
「馬鹿な。丞相が兵糧の計算を誤ろうはずがない」
「いや、丞相の兵糧だよ」
「何っ」
「あれでは、おかわりとは言えんではないか、そうは思わぬか」
「不埒な。あろうことか、丞相の幕舎を窺うとは」
あの不思議な「おかわり」は、側近く仕える、自分だけが知っている
ちょっとした秘密のようなもので、どこの誰とも知れない
この胡散臭い男に知られていることが、何となく
不愉快でもあった。自然と、また語気が強くなる。
「すまんすまん、言い方が悪かった。見えてしまうのだ」
「お前は道士か何かか」
「強いて言えば、そんな類かな」
「いや、もし丞相のお身内であるなら、お名乗りにならぬのは何故ですか」
「怪しい者だから、名乗らないのだよ」
「……怪しい者が、自ら怪しいなどと、私を愚弄するのか」
長い腕を掴んでやろうと思うが、
身をかわされた風も無く、掠りもしない。
「待て待て、すぐ退散するから、一つ聞け」
「何だ」
「あれは、どうも深く眠れて居ないらしい」
「あれと言うな、無礼者め」
「すまん、つい。丞相が良く眠る術を教えよう」
「術だと?」
「あのな、何でもよい。布で耳の辺りを覆ってやれ」
「耳?」
「あれ・・じゃのうて、丞相は、耳敏かろう。
しかも、あの頭の中で、始終ぐるぐると考え事を巡らせていて忙しい。
寝返りでも打って横になった頃合に、そっと耳を覆うてやってみよ。
もう見ておられんので、こっそり出てきてみた」
「見ておられん?」
「お前が一番間違いなさそうだったので、教えた。ちと、何とのう、妬けないでもないがの。 しかと頼んだぞ」
にこにことした笑顔を残して、其の男は、音も無く闇の中へ後ずさり、
雲か霧のように消えてしまった。
(不思議な道士か、本当に、物の怪だったのか)
眼を擦りながら、丞相の幕舎に戻ってきた麒麟児は、
横臥する人が、こちらへ貌を向けて、うとうととしている寝姿を認めた。
(耳を、覆う……?)
そんなことで、この浅い眠りを深く誘うことなど、出来るのだろうか。
しかし、薬効もあまり期待できない今、
そして、それは危険を伴う事でもない以上、
化かされついでに試してみようと、若者は思った。
(何が良いか、お膚に触れて御不快でない、柔らかいもので……
できれば、滑り落ちにくい、大きなものがよいか)
丞相の身の回りの物を纏めている櫃を、そっと開けて思案しながら
手探りしていると、普段あまり使わなくなったような、
少し褪せた青色の柔らかい衣を、底の近くに見つけた。
これも、寝衣だったのだろうか、麻のようだが、
何度も洗って、くったりと着古した風情で、なじむような風合いが心地よい。
拡げると、丞相の衣にしては、少し大きいようであったが、
夜具にするには丁度良さそうだ。
それに、あまり取り出さない為なのか、櫃の隅に納まっている、
丞相の好みの香の薫りが程よく移っていて、いかにも眠りを誘いそうである。
(これを、お掛けする序に片袖を、お耳にかけてみよう)
翌朝、麒麟児がとぼとぼと朝餉を運んでいくと、
丞相は、寝衣のままではあったが、寝台を降りて、座って待っていた。
「おはよう、伯約」
「丞相、ご無理はなりません」
慌てる若者を、穏やかな笑みで制して、
「昨夜は良く眠れました。薬が特に効いたとも思えません。
わたくしに何か、隠していますね。白状なさい」
丞相の、咎めるような言葉とは裏腹に、楽しそうな聲音を感じて、
麒麟児は嬉しくなった。
「よくお休みになれる術を、教えていただいたのです」
「誰にですか」
「妙な、道士にです」
「そなたに素性を割らせぬとは、随分と、したたかな道士ですね。
信じてしまう、そなたもそなたです」
「申し訳ございません」
「咎めているのではない。珍しいと思っただけです」
「その道士のことですが、
丞相には、年のころ五十ぐらいの、腕の長いお身内は、おられませんか」
「えっ」
丞相は、箸を取り上げようとした細い指を止めた。
「化かされたかと、お笑いになるかもしれませんが、
昨夜、蒼い衣の五十がらみの男が現れて、
丞相が良く眠れる術を授けて下さり、忽然と消えたのです」
「そのかたは、どんなお貌であったか」
丞相の聲が、震えているようであった。
「暗闇で、良くは見えませんでしたが、
おっとりとして、温厚そうな笑みを絶やさず……。
ああ、そうです、両耳がとても巨きくて」
丞相の眸が、円らに見開かれて、今までに無いほど、
自分を注視していることに気付いて、若者は言葉を呑み、
息も忘れて沈黙した。
丞相は、「おかわり」をする時に似たような透明な笑みを浮かべると、
遠くを見る風情で、静かな口調で其の沈黙を破った。
「怪力乱神ヲ語ラズ、とは、古えからの戒めではあるが、
あなたは昨夜、先帝に拝謁したのですよ」
魏討伐も五度目を数え、この夏の酷暑と長陣が障ったのか、
丞相はすっかり食が落ちてしまい、四輪車に乗ることが多くなった。
否、
車に乗ることすら、辛そうに見受けられる。
其れは、今日の夕餉をととのえて、
天水の若き麒麟児が、敬慕してやまない丞相の幕舎へ、
手づから膳を運んでいく途中での事だった。
「丞相は、食が落ちたのう」
「誰だ」
不意に、背後から、耳慣れない声を聴き、
膳の水平を保ったまま、きっと振り返る。
そこには、おっとりとした初老の男が立っていて、
夜目にも温雅な、人懐っこい笑みを湛えて、
蒼みの多い、異様に袖の長い衣を纏っていた。
丞相の容子が優れぬことは、陣中でも機密なのだ。
見慣れないこの男は、何処の誰か。
間者にしては、歳が行きすぎているが、
麒麟児と謳われる若者は、警戒を解かずに男を問い質す。
「どこの隊の者か。見慣れない顔だ」
「はは、さすがは丞相が選んだ側近だな。厳しい」
「ここを何処だと心得る」
「丞相の、幕舎の前だろう」
「無礼者。お召しも御用も無く近づいてはならぬ」
「用か、有るともいえるし、無いともいえるな」
「怪しい。何奴」
若者が、今にも膳を投げて剣の柄に手にかけそうな
怒気を発したのを。初老の男は大きな手で宥めるように制して、
「これ、これ、丞相の夕餉を粗末にいたすな」
『丞相』という言葉に弱い若者は、出鼻を挫かれたように、
膳の上の、蓋で覆った小皿の数数を見て、やや気を鎮めた。
「心配じゃのう、かというて、代わりに食うてやる訳にもいかん」
男も、膳の上を覗き込んで、心から案じているような
しんみりとした声音を続ける。
「用事はの、よく食い且つよく眠れというようなことだが、
……どちらも、出来ておらんのだろう」
丞相の容態を見透かされている。
この男は、道士か、仙人か。仙神にしては、やや俗っぽい。
「何かよい手立てがあると申すか」
「無いでもない」
「早く申せ」
「ああ、その前に、早う、飯を持ってゆけ。あれは猫舌じゃから、
羹は丁度よかろうが、他は温かいうちがよいぞ」
「よし、其処に待って居れ」
そう言いつけて、麒麟児は幕舎の幔幕をくぐりながら、
(丞相を、『あれ』とは、無礼ではないか)
また、沸沸と憤りが湧いたものの、
奥に横臥している人の白皙の貌が近くなるにつれて、
今しがたの出来事も、急に薄れてゆく。
丞相は病は得ても、老化というものとは無縁で、
さすがに髪には白いものも混じってはいるが、
立っていても、座していても、こうして臥していても、
兎に角、品が良いの一言に尽きる。性別や年齢の色が希薄である。
神々しいような、ひとつの天性が人の形をしているような具合だ。
この若者は、屡屡、この白い貌立ちをした総帥と、
歳が廿も離れている事を忘れかけてしまう。
「伯約、おかわりを下さいますか」
「はい」
箸や匙の上げ下ろしも大儀そうに、寝台の上に起きあがって、
細細と膳を進めている丞相の、翡翠の転がるような聲に乗せた
いつもの言葉を耳にして、若者は、ほんの一口の粥の小皿を差し出す。
(はたしてこれを、おかわりと言えるのだろうか)
丞相の習慣なのだろうと思って、言われる通りに
食を扶けているのだが、理に適ったことしかしない、
無駄を好まないはずの丞相にしては、
この「おかわり」は、妙な癖だと、ずっと思っていた。
「ありがとう」
そして、おかわりの皿を受け取るとき、
丞相は、いつもの丞相ではないような、甘いような色を眸の奥に刷くので、
はじめは、自分に対する何らかの感情の表れかと、勘違いをしかけたのだが、
(何か、思い出のような、御家の習慣への、郷愁のようなものか)
と、麒麟児は推測していた。
(或いはあの男、諸葛家の縁者か)
丞相の起居を良く知っているような、あの口ぶりに、
思い当たって、やや腑に落ちたように、安心する。
給仕を終えて、服薬を手伝い、
丞相がまた寝台に横たわるのを扶けて、
若者は幕舎を辞去した。
(や?あの男は?)
膳を運んできたときに現れた、男の姿がなかった。
(待って居れと、命じたたというのに)
下知を無視された軽い苛立ちを感じながらも、
丞相の縁者かもしれないという推測に、その感情を抑え、
警護の兵に穏やかに問う。
「これ、先刻、ここに居った男は何処へ行った」
「男? でございますか? 将軍でしょうか、兵卒でしょうか」
「鎧うてはいなかった。蒼い衣を着ていた。文官だろうか。五十くらいの」
「夕方から、姜将軍の他、誰も来ておりません」
「そんなはずはない。御膳を運んできたとき、私の後ろに居ただろう」
「将軍お一人でした」
皆、『お一人でした』と口をそろえる。
(物の怪か)
あまり言い立てて、『姜将軍には何か憑いた』との風聞でも流れて
士気を下げても芳しくないので、
「そうか、私の勘違いだったかな」
と、口を濁して立ち去る。
まるで小鳥一羽が啄ばんだ後のような膳と一緒に、
足取り重く、陣中を歩んで食器を返却し、丞相の傍へ戻ろうとすると、
目の前に、先ほどの男が現れた。
「あっ・・・。何処へ行っておった。待って居れと言いつけたはず」
詰りながらも、
(丞相のお身内であったら、無礼は私の方かもしれない)
と、語気が弱くなっていく。
「ちょっとな、覗き見をしておった」
「どこをだ」
「兵糧は足りているかを、だよ」
「馬鹿な。丞相が兵糧の計算を誤ろうはずがない」
「いや、丞相の兵糧だよ」
「何っ」
「あれでは、おかわりとは言えんではないか、そうは思わぬか」
「不埒な。あろうことか、丞相の幕舎を窺うとは」
あの不思議な「おかわり」は、側近く仕える、自分だけが知っている
ちょっとした秘密のようなもので、どこの誰とも知れない
この胡散臭い男に知られていることが、何となく
不愉快でもあった。自然と、また語気が強くなる。
「すまんすまん、言い方が悪かった。見えてしまうのだ」
「お前は道士か何かか」
「強いて言えば、そんな類かな」
「いや、もし丞相のお身内であるなら、お名乗りにならぬのは何故ですか」
「怪しい者だから、名乗らないのだよ」
「……怪しい者が、自ら怪しいなどと、私を愚弄するのか」
長い腕を掴んでやろうと思うが、
身をかわされた風も無く、掠りもしない。
「待て待て、すぐ退散するから、一つ聞け」
「何だ」
「あれは、どうも深く眠れて居ないらしい」
「あれと言うな、無礼者め」
「すまん、つい。丞相が良く眠る術を教えよう」
「術だと?」
「あのな、何でもよい。布で耳の辺りを覆ってやれ」
「耳?」
「あれ・・じゃのうて、丞相は、耳敏かろう。
しかも、あの頭の中で、始終ぐるぐると考え事を巡らせていて忙しい。
寝返りでも打って横になった頃合に、そっと耳を覆うてやってみよ。
もう見ておられんので、こっそり出てきてみた」
「見ておられん?」
「お前が一番間違いなさそうだったので、教えた。ちと、何とのう、妬けないでもないがの。 しかと頼んだぞ」
にこにことした笑顔を残して、其の男は、音も無く闇の中へ後ずさり、
雲か霧のように消えてしまった。
(不思議な道士か、本当に、物の怪だったのか)
眼を擦りながら、丞相の幕舎に戻ってきた麒麟児は、
横臥する人が、こちらへ貌を向けて、うとうととしている寝姿を認めた。
(耳を、覆う……?)
そんなことで、この浅い眠りを深く誘うことなど、出来るのだろうか。
しかし、薬効もあまり期待できない今、
そして、それは危険を伴う事でもない以上、
化かされついでに試してみようと、若者は思った。
(何が良いか、お膚に触れて御不快でない、柔らかいもので……
できれば、滑り落ちにくい、大きなものがよいか)
丞相の身の回りの物を纏めている櫃を、そっと開けて思案しながら
手探りしていると、普段あまり使わなくなったような、
少し褪せた青色の柔らかい衣を、底の近くに見つけた。
これも、寝衣だったのだろうか、麻のようだが、
何度も洗って、くったりと着古した風情で、なじむような風合いが心地よい。
拡げると、丞相の衣にしては、少し大きいようであったが、
夜具にするには丁度良さそうだ。
それに、あまり取り出さない為なのか、櫃の隅に納まっている、
丞相の好みの香の薫りが程よく移っていて、いかにも眠りを誘いそうである。
(これを、お掛けする序に片袖を、お耳にかけてみよう)
翌朝、麒麟児がとぼとぼと朝餉を運んでいくと、
丞相は、寝衣のままではあったが、寝台を降りて、座って待っていた。
「おはよう、伯約」
「丞相、ご無理はなりません」
慌てる若者を、穏やかな笑みで制して、
「昨夜は良く眠れました。薬が特に効いたとも思えません。
わたくしに何か、隠していますね。白状なさい」
丞相の、咎めるような言葉とは裏腹に、楽しそうな聲音を感じて、
麒麟児は嬉しくなった。
「よくお休みになれる術を、教えていただいたのです」
「誰にですか」
「妙な、道士にです」
「そなたに素性を割らせぬとは、随分と、したたかな道士ですね。
信じてしまう、そなたもそなたです」
「申し訳ございません」
「咎めているのではない。珍しいと思っただけです」
「その道士のことですが、
丞相には、年のころ五十ぐらいの、腕の長いお身内は、おられませんか」
「えっ」
丞相は、箸を取り上げようとした細い指を止めた。
「化かされたかと、お笑いになるかもしれませんが、
昨夜、蒼い衣の五十がらみの男が現れて、
丞相が良く眠れる術を授けて下さり、忽然と消えたのです」
「そのかたは、どんなお貌であったか」
丞相の聲が、震えているようであった。
「暗闇で、良くは見えませんでしたが、
おっとりとして、温厚そうな笑みを絶やさず……。
ああ、そうです、両耳がとても巨きくて」
丞相の眸が、円らに見開かれて、今までに無いほど、
自分を注視していることに気付いて、若者は言葉を呑み、
息も忘れて沈黙した。
丞相は、「おかわり」をする時に似たような透明な笑みを浮かべると、
遠くを見る風情で、静かな口調で其の沈黙を破った。
「怪力乱神ヲ語ラズ、とは、古えからの戒めではあるが、
あなたは昨夜、先帝に拝謁したのですよ」