寒巖一樹梅 (かんげんいちじゅのうめ)

2011/01/01

うをとみづ3世紀SS

(このただ今、いかに遊ばしておわすであろうか)

まだ日輪がのぼらない元旦、
今上の叔父は、城内のちいさな廟堂で
先祖を伏し拝みつつ、遥けく座します帝を思った。

昨夜からほとんど御寝にもならず、
宮中で脈々と続いてきた有職故実に倣って、斎戒潔斎し、
天地を、先祖を祀り、皇暦を発し、朝臣から三叩頭の拝礼を受け、
新年を嘉しておいでなのであろう。

万乗の君にあそばすというのに、
天下から遍く拝礼を集めながら、
その御心は、一年で最も虚ろなのではあるまいか。

お蚕ぐるみで、何不自由なくお暮らしであろうとは、
帝を存じあげぬ者の空想に過ぎず、
幼き頃から帝位をめぐる争いの渦中に在られ、
御生母を害され、御兄君のご即位とご退位を間近にご覧になり、
そして玉座にお就きになった刹那から、
御心は冷たい牢獄に囚われたも同然である。

おそらく、父帝は経験したこともないような
危険な目にも、何度もお遭いになっている。

(去年も、皇叔の名に恥じねばならぬ一年であった)
我が龍の叡智を借りて、最も身近な甥の窮地を救い、
後見して庇護することが、今の彼には精一杯である。
この元旦も、帝への遥拝と、先祖への詫び言で始まってしまった。

先の大戦で大勝利を収めて、荊州という絶好の地に
ようやく足がかりを得たとはいえ、
あるいは、先々代の荊州牧が没するまえに、
龍の勧めるがまま、ここを手中におさめていれば、
更に有利な状況になっていたのかもしれない。

(陛下、遠回りをしてしまうのは、儂の悪い癖です)
ほう、と溜息をついてしまってから、
冷たい口髭のあたりに袖口を寄せて、
元旦から福が逃げそうだと、
いまの溜息をなかったことにするように、
慌てて塞ぐようにした。

思い返せば、昨日のことのように思い出せる、
赤い密勅を賜ったあの頃の、彼の記憶の中の竜顔は、
まだ、十七、八のお若さであった。

(今年の御歳は、はや……)
彼は指を折り、数えて、
今更にして思い至って、驚いた。

頼りない灯火に、ようよう明けゆく暁の光がくわわり、
昏き廟堂に漂う香華の煙が、
宙に重なる白い紗のように見え始め、
拝跪していた彼は、徐に立ち上がった。

開けよとも命じず、廟堂の扉を自ら開けて
白白としてきた外へ出ると、
「我が君、新年を賀し奉ります」
思いがけず、我が龍が、衣冠も正しく、跪いて彼を迎えた。

「お……う、我らが漢室の弥栄を……」
反射的に彼も丁寧に拱手して応じてから、
ほそい肘をあたたかな掌で包んで立ち上がらせ、
「これ、孔明、斯様に寒いところで待ち呆けとは。
新年の賀ならば、あとで皆ですればよいものを。入ってきても、苦しゅうなかったのだぞ」

咎めるように聲を潜めると、
「元旦から、お叱りを頂戴してしまいました」
と清げな白い息と共に零しながら、
かしこくも今上の御歳と同い年を数える
彼の龍は、叱られた臣とは思えぬ透明な微笑を湛えた。

「年頭から、風邪でも引いたら何とする。いかんぞ」
彼は、悴んだような石段を先んじて降りながら
慈父のような口ぶりで窘めると、
「風もなく、穏やかな朝でございます。
……我が君こそ、新野と隆中を、あの雪の中、
往来くださいました。勿体のうございました」
「あの日の寒さなど、もう忘れてしまった」
「わたくしは、覚えております」

この世で恐ろしいのは己のみという、
全ての頂に屡屡ひとり立ち竦むような龍は、
新野の城に入ってほどなく、
この主君が、例えるならば、この一条の龍は我が水なのだと
僻む左右に言い聞かせた事らしきことを、
冷たい石段を降りながら思い出す。

面と向かって、そのように言われたことはないのだが、
(もしもそうであるならば、凍えるばかりに冷たい、霙まじりの、
厳寒の湖水のような)
と、龍は自嘲していた。
果たしてそのような水中で、魚は伸び伸びと暮らせるものであろうか。

この主君が好まないであろう穢い謀略すらも、
臆面もなく選択肢の中に、しかも筆頭の上策にすら掲げて進言する、
氷のような己が策略を、高所大所から見るとき、
分かりきっていたはずの己の冷酷さをまざまざと見、
屡屡、自ら凍てついてしまいそうだった。

だのに、彼は、その昏いまでに冷え冷えとした恐ろしさの
影が落ちぬほどのまばゆい光を發して覆ってしまう。

懐にした冷たいこの匕首を、温かい鞘に大事に納めた懐剣に
変えてしまうばかりか、しかも彼は、この懐剣で人は斬らずに、
天命に従って王道を切り拓くのだ。

お前の何処が怖いのか、穢いというのか、
儂には皆目わからんのう……
と、本当は我が龍の内包する空恐ろしさを
既に悉知しているくせに、何ほどのこととも思わず、
おっとりと笑んだ視線に、
其う漂わせるこの王の傍でならば、
何も偽らずに生きられると、この、人の姿をした龍が實感したのは、
王が件の日の寒さを忘れたと言うほど、遠い昔のことではない。

「おお、日が昇る」
龍が、かの雪の日の書簡を思い出しているとも知らず、
彼は彩雲の彼方に視線を注ぎ、
「来年もな、共にこうして、日の出づるを見ることにしよう。
もしも、やむを得ず離れた場所におるならば、
其処から、同じ旭日を見ることにしよう。……成るべく、離すつもりはないのだがな」
そう言って、この年最初の、彼らしい温雅な笑顔を見せた。

我が龍は、彼の利や運のためならば、
たった一人で外国へ使いするということすら
茶を喫するが如くにしてのけてしまう。
彼にとっては、龍は恐ろしくもなく、穢くもなく、ただ時々あやうい。
龍には成算があっての事であっても、このほうが心配でならない。

「きっと、お傍で」
透き通ったように応じる白い貌を見遣りながら、
お前は、陛下の御歳と同じだったのだなと、
つい先ほど気付いた新しい発見を、彼は飲み込んだ。

それは、格別に重要なことではないのだ。
かしこくも陛下と同じ年に生まれ出でた奇遇は
喜ばしいことではあるが、だからといって、
我が龍に何か新しい魅力が加わるということではない。

御歳と同じであるという喜ばしい事実で、
何かを補わせねばならぬようなことは、何もない。

「……おや、何やらよい香りがせぬか」
彼は、親しく龍の手を引きながら石の廊を歩みつつ、
我が龍は、新年には香嚢の中をあらためるのだろうかと、
朧に思い描きながら、独り言のように話しかけた。

「かしこの、梅でございましょう」
「もう咲いたか」
彼は足を止めて、龍の白い貌を眺めつつ、
何気なく鼻孔の奥を蠢かせて香気が漂ってくる方向を、追ってみた。

「ご覧下さい。昨夜の暖かい雨に誘われたので御座いましょう」
龍が白い羽毛の扇で示した方角には、
確かに、冬枯れた色合いに沈んだ樹々の中に、
ひとつふたつ、白き梅の花が、
言われて初めて見えるほどだけ、ほころんでいる。

然し、この僅か数輪が發する香りとは思えず、
(やはり、そなたであろう)
と、心の裡で断じていたが、實際は龍の纏う香りの高きと、いましがた彼が
廟堂で得た香華の移り香が相俟って、
偶然に和したたゆたいが聞こえたものであった。

「寒中を厭わず咲く梅は清いものじゃ。毎年、斯くありたいものだが」
白い色の溜息とともに吐くような我が王の呟きに、
龍は、たとえ四君子すべてが此処に一度に咲き誇ろうとも、
この王の美徳には到底適うことではないと思いながら、
まさか、いま王が、この香に事寄せて我が龍を気にかけたのだとは、
この唯だ一条の龍は、なぜか露ほども考えない。

「我が君は、天下一の大樹であそばしますれば」
衝動の如きものには縁遠かったはずのこの龍は、
きっと彼が先祖に詫びを入れに行ったのだと
察するや否や、この未明に追ってきてしまったものの、
其うである以上、何の面目あって、
我が王の父祖の廟堂に立ち入れようかと、
そのような思いで立ち待ちをしていたのであったが、
阿諛のような内容が続いてしまうであろうことを憚るように、
その先までは言えずに、俯きながら小聲でそう告げた。

「そうだな、夏は木陰で民を癒し、
冬は枯葉や枯枝で暖を摂らせる。それができれば、
花など咲かずとも、以って瞑すべしじゃな。
名も無き樹でも、何の樹でもよい。お前はよう分かっておる」

あたたかに笑んむ彼は、我が龍がまさか、
彼の大きな袖に残る移り香を、梅よりも蘭よりもなお芳しいと、
心から慕わしく思っているのだとは、まだ気付かない。

斯う言いながら
(儂は、ほかにも何か遠回りをしてはおらぬのか)
真新しい曙に漂う、この白梅によく似たような空気の中で、
彼は今までの元日に感じたことのない問いの如きが
醸されることを感じていた。