立夏時節雨紛紛 (りっかのじせつ あめふんぷん)

2011/05/01

うをとみづ3世紀SS

今上の叔父である彼は、ある初夏の日に
我が龍と書き物をしていた。

肌寒くもない、蒸し暑くもない気候に、
雨は新緑を潤すように、霧のように柔らかく降り注ぎ、
目に映る木々は、まるで沐浴をしたばかりのようである。

甍から集まり伝い落ちる雨の雫は僅かで、
ぽた、ぽた不規則な音が、
忘れた頃に緩慢に室の中へ微かに届く。

十重二十重の紗を巡らせたごとくに、
外界と柔らかに遮断されたような、広くもない房室で
執務する彼は、淡い静けさの中で、
積み上げられた竹簡を披見し、黙黙と署名してゆく。

ふと眸を転ずると、彼の掌中の珠玉たる龍は、
朝餉を摂った時から少しも乱れぬ身じまいのまま、
竹簡を広げたり収めたりする物音すら僅かに、
筆の穂先を動かしている。

(……)
彼の視線に気づいて、龍は白い貌をあげる。

特に用事があって見ているのではないことを、
双眸の色から感じ取って、龍は彼をいたわるように、
頬を緩め、かすかに頸を傾げるような仕草で
微笑をたたえる。

その清げな、双眸が洗われるような表情を見て、
彼も笑みを返して、しばし見つめあい、
また書き物を続ける。

(今日は、一日雨なのであろうか)
雨足というものすらないほどに
弱い降りかたで、雲も厚いとはみえぬが、
空が明るくなるような気配は未だ見えない。
彼としては、でき得るならば時時は、
雨であってほしいのである。

(どうせなら、夜まで降らぬであろうか)
なぜなら、雨の夜には、何か特別な事由がない限り、
彼の龍は天文を観にゆかない。

そのようなことを、もし義弟らや左右が聞いたなら
――寝食まで共になさりながら、星を観るひとときぐらい
と、呆れられるであろうが、其の一刻すら、
彼には一千日のようにすら思える。

(いいや、一人になりたい時とてあろうな)
召しだしてから、一つの卓で餐を摂り、
ほどなく我が寝台で寝に就かせるようにもなり、
それらは命じたつもりはなく、
舟が水に浮かぶが如く、魚が水に棲まうが如く、
彼なりの自然な成り行きではあったのだし、
我が龍も、既に日常のこととして慣れてはくれた
ようではあるが、この離れ得ぬような思いまでが、
果たして同じなのかどうかは、
何とのう、はきと質そうという心地になれずに
今日に至っている。

(しかし、今日は晴れても構わぬか。朔ではないのだから)
新月の夜は、我が龍は天文を観ることに時間をかけるので、
彼としては朔の日にこそ、天候が悪ければ好都合なのである。

(それに、雨上がりは、花の香りが殊に芳しくなる。
丁度、蓮池のほとりの梔子が咲きそうであったではないか。
上がったなら、散歩に連れ出そう。
喜んでくれようか)

このように、直ちには答えが出るわけでもない、
そして、たとえば今の執務の内容や状況に全く関連のない事柄を
ゆらゆらと、寛き胸のうちに、同時に幾つも広げておきながら、
事を処することについて、彼は何の苦もない。

この、一見、没頭ということができない
散漫でとりとめもなく茫洋としたような彼の懐こそが、
選ばれた王器の条件のひとつであり、
いわゆる「仁徳」が目に見える姿になった一例なのだが、
大きすぎるものは、眼前に聳えると往往にして見えなくなるものである。

譬えば、天子の錦の御旗を、
不意に目の前三寸の内に拡げたならば、
細かな織は見えようとも、その旗の發するご威光を
畏れ敬い、ひれ伏すことが出来ようか。

斯様ではあるが、彼の回りには、
彼が遠くに居ようと、傍に居ようと、
常に心と心が響きあうような者たちが、
幾たりも群がり集まっている。

とりわけ、この世で一条のこの龍など、
彼がそうであったように、彼に会う前から、
どうやら彼の備える王器に気づいていた様子なのである。

墨を磨り足しながら、空の明るさが増すのを覚えて、
龍は、やはり予測よりも早く雲が晴れてゆくことについて、
我が王がよく晴天を引き寄せる何かを
備えているらしきことに、また思いを致していた。

彼に仕え始めてから、天文で読み取ったはずの
天候が、ときどきに予測よりも前後することがあり、

(わたくしとしたことが、はて、何か見落としたであろうか)
はじめは訝しく思ったものの、
これは、大事な戦の折には、不思議なことに
なぜか鳴りを潜めてしまい、
謀らねばならぬ時には、ほぼ龍の観察と思惑どおりに
天候は推移するというのに、平時には、
とくに外出する用事があるような場合に、
彼が門へ歩みを進めるにつれて、
雨は小雨に、曇天は薄曇りへと、
其の日なりに好転をみせるのだ。

(まさか、そのような。都合が良すぎる)
俄かには信じられなかったが、左様なことが
三度も続いた後、龍はもう疑わなかった。
その都合の良すぎることを招いているのは、
どうやら他ならぬ我が王なのであると。

(雨が上がることをお望みなのであろうか)
一羽の鳥が、堂宇と門の間を微かな羽音とともに、
高らかな啼き聲だけを残して、一瞬にして飛び去ってゆく。
開け放った扉の向こうの廊から、
斜めになった四角い光の塊が、房室の床にくっきりと落ちてくる。

「孔明」
「我が君」
同時に、互いを呼んだ。

二人は見交わして、蝶と花が出逢ったように静かに
微笑みあうと、もう既に心で語らってしまったことを
敢えて口にした。
「雨は、上がるようじゃな。これが終わったら、ちと庭へ出ようか」
「はい」


おっとりと近寄って、我が龍の白い手をとると、
彼は、まるで今まで、一つの傘のもとで
肩を寄せ合っていたかのような錯覚にとらわれながら、
雨が上がろうと、上がるまいと、實はどちらでも同じであったのだ、という思いに
寛き胸を盈たして、まばゆい陽光のもとへといざなった。