今上の叔父たる彼は、夜の餐を淋しく摂ったのち、
供も僅かに、掌中の珠玉である我が龍の私室を見舞った。
夜空には白い靄のようなものがかかり、
星影は見えぬのに、月ばかりが朧に涙ぐんだような風情をしている。
「お目覚めですか、臥龍先生」
温雅な低い聲音に、龍は、
(あっ)
と聲をあげそうになり、
(この御方を、わたくしはもう、我が君とお呼びして久しいのだった)
そう思い至って双眸を緩く開いた。
昏い枕頭に座る我が王のまとう装束や冠の形をみとめて、
ここが隆中ではないことを確認し、刻限も日が暮れた後で、
扉の外の草叢からは、夏の訪れを告げる虫の声が
小さく洩れ届くことを知覚すると、今、昼寝から覚めたのではなく、
軆の具合が優れずに、臥していたことを思い出した。
「我が君」
「ああ、寝ておれ、無理をさせるために来たのではないぞ」
「少し、眩んだだけでございます」
「その『少し』がいかん。そちの『少し』は信用ならん」
このような時、
”そちがおらんと、飯が旨くない”
というような本音は言わない。
彼や、彼の弟たちは、たとえば少々の風邪をひいたぐらいでは食も落ちず、むしろ
「食って治す」
あるいは
「食えば治る」
ぐらいの考えで居る上、
胃の腑もそのように出来ているようなのだが、
どうやら我が龍は違うようなのである。
頗る精巧にできているらしい我が龍は、季節の変わり目や、
不測の僅かな環境の変化に、調子を崩すことがある。
一旦、そうなると、薬湯のほかは一日中何も口にしない。
彼ははじめは狼狽し、何か食べさせねばと腐心したが、
「申し訳ございませぬ。……いただいても、きっとあとで戻してしまいますゆえ」
龍は、涙目になって、か弱くそう言うばかりなのだった。
彼もようやく、そのような場合の我が龍に慣れてきて
(嘔いたりなどしたなら、更に軆が辛くなろう)
軍師が、軍師が、と右往左往することを慎み、
そういう軆のつくりなのだと理解に努めるようになってきた。
この日は、強い香りがいけなかった。
城内の視察から帰ってくると、一歩、房室に入るなり、我が龍は扉に縋るように、くらり、と、くずおれかけた。
「いかん」
彼は、龍を扶けおこしながら、原因を探して
素早く室内に視線をめぐらせると、
なにゆえかは知らないが、出掛ける時にはなかった
大輪の百合の花々が、主座の両側に盛るように、
誇らしげに活けられているのを見咎めた。
龍は軆が頑丈とはいえないうえに、
人より五感が敏くできているようで、
無害なはずの百合の花や茉莉の花の類ですらも、
ひとたび過ぎれば、繊細な知覚を刺し貫かれて、
気が遠くなるかのようなのである。
香も、麝香を多く含んだようなものは、濃すぎるようだ。
淡く仄かなものほど、好むような傾向にある。
彼は、ほど近い我が私室にも、
この百合が飾られている状況を恐れて、
そっと左右に言い含めて龍の書童に使いを遣り、
寝台の用意をさせて、傍目には何事もなかったかのように、
血の気の引いた龍の蒼白な手を、冷えた手頸までも
温めるかのように包み込んでゆっくりと引いて扶けながら、
厳として暫時の安静を命じたのである。
かつて、このようなこともあった。
表の私室で、いつものように龍を側近くに寄せて
雑談に興じはじめると、龍はいつになく
だんだんと伏目がちに、忙しなく白い扇を
繰っていると思うたら、ぱたりと扇を取り落として、
白い貌に蒼い脈まで浮くほどに顔色を悪くして
しまったことが何度かあった。
その前後をあとでよくよく考えてみると、
彼は龍に会う前、後苑で嫡子と戯れ遊んでいたのであった。
嫡子はまだ幼いので、女官に囲まれて暮らしている。
(するとどうやら、粉黛じゃな)
彼は、得心が行くと同時に、
そう思い当たったとき、思わず噴き出してしまった。
(このようなことでは、女遊びなども、ついぞ、したことなどもないのだろう)
たとえば悪友に連れられて、妓楼へ上がったとしても、
何も起こらぬうちに、紅白粉の香りに噎せて、
その悪友どもに担ぎ出されて帰るような、
今は知り得ぬ一幕を知ったような心地になりつつ、
なにやら、ほっとするようなものも感じながら、
嫡子が奥を出る年頃になるまでは、戯れたあとには更衣をしよう、と
「気をつけること」の一つを決めたのだった。
かといって、
「あれはならん、これもならん」と、
我が龍の好みに合わせて細細と取り決めを設けるのは、
おそらく龍の心に適うことではなかろうと
察した彼は、彼が気をつけてやればよいと
考えているのだが、彼だけが気をつける結果、
やはり時々に、不測の事態は免れ得ない。
「今宵は、星は出ておらん。天も休めと仰せじゃ」
ひとり、気をつけていることが行き届かず、
彼は詫びを込めながら、安心を誘うように
低い聲音でよびかけた。
「見舞いをな、持って来たのだぞ」
「……?」
龍は、このような時に、彼がもう、無理に食事を与えたりしないことを
知っているので、訝って我が王の面を見詰めて、
小頸を傾げるようにして、視線で問うた。
「丁度良い頃合じゃろう」
彼はそれに笑みで応じて、大きな袖の中から、
小さな虫籠を取り出してみせる。
「我が、君」
虫籠の中には、蛍が光っていた。
誰が合図をするのか、皆、一様に点滅を繰り返す。
「若殿でございますね」
「これ、孔明よ」
彼は、おだやかな口調のまま、
わざと舌打ちを連ねて、おっとりと窘めた。
「斯様な時に、頭を使うでない。儂に喋らせておけばよいではないか」
咎めるような言葉と裏腹に、目尻に笑い皺をたたえている。
「そうじゃ、阿斗の奴め、『廟堂におまいりしていて見つけました』
などと書き付けを結んで寄越しおった」
それならば、父たる彼を蛍見物に誘っても良さそうなものであるが、
わざわざ捕らえて虫籠に入れて贈って寄越すとは、明らかに、
外へ見に行けない者の存在を意識している。
「誰が智恵をつけたのかは知らん。
だが、おそらく、智恵をつけた者の言うがままには書かなかったのだろう。
まだ幼いゆえ、そちが倅の将器をどう見るかを聴くのは差し控えたいが、
儂は、あ奴の、このようなところを好ましく思っておる」
「……隆中を、思い出します」
彼の意を汲んで、嫡子のことに言及するのを避け、
龍はいま心の中を占めたことを、素直に口にした。
「そうじゃな、龍の住処は、清流に囲まれておった。
今頃に訪れたなら、また別天地であったであろう」
秋に、冬に、春に、三度にわたって往来した
龍の庵を、彼も懐かしく思い出す。
三度といわず、何度でも行き来を厭わなかったのであろう
我が王の意志を言外に感じて、龍は何と続けるべきか迷い、
殊更に、長い留守をしている庵の佇まいに気を逸らそうとする。
「田舎のことゆえ、家の中へ、迷い込んで来たものでございます」
「そりゃ、お前に会いたかったのだろうよ」
「なぜでございますか」
「蛍だけではない。蝶だとて、よくお前に止まりたがる」
彼は、めずらしくほつれた龍の鬢の一筋の黒髪を、
まるで花の花弁に触れるように、柔らかに
撫で付けてやると、
「蛍も、儂も、なるべく我が水の傍に居りたいのだよ」
そう囁いて寛い笑みを刷き、
我が懐に攫って匿いたい衝動をかろうじて抑えながら、
そのまま大きな掌で龍の瞼を覆い、眠るようにと促した。
「乘よ、先生がお辛いようであったら、
髷を解いて差し上げよ。儂は今宵はもう来ぬゆえ」
龍の書童には別に名があるが、
乘(かい)とは「お利口さん」というような意味で、
彼が呼び習わしている愛称である。
君前で横たわっていることすら、良しとしない龍が、いくら辛かろうと、
まして髪を解いた姿など、決して見られたくないと
思っているであろうことを見透かして、
彼は童に「来ない」という、優しい約束を残して帰ってゆく。
「それからな、先生がお休みになったら、
蛍を外へ放してやってくれ。むろん、乘も見てからでよいのだぞ」
穏やかな我が王の聲と、はいと答える少年の
応答を夢うつつに聞いて、
(水は、天空や大樹や大海なくんば、
天下を経めぐることなど、少しも出来ぬのでございます)
龍は、心の中で強く念じて、
遠ざかる足音が鼓膜に届く限り追いすがり、
聞こえなくなると、我が王の歩みを測って、
いま何処にどうしているのかを脳裏につぶさに描き、
蛍火のように胸に宿る慕わしさに、瞼のなかで双眸を潤ませていた。
供も僅かに、掌中の珠玉である我が龍の私室を見舞った。
夜空には白い靄のようなものがかかり、
星影は見えぬのに、月ばかりが朧に涙ぐんだような風情をしている。
「お目覚めですか、臥龍先生」
温雅な低い聲音に、龍は、
(あっ)
と聲をあげそうになり、
(この御方を、わたくしはもう、我が君とお呼びして久しいのだった)
そう思い至って双眸を緩く開いた。
昏い枕頭に座る我が王のまとう装束や冠の形をみとめて、
ここが隆中ではないことを確認し、刻限も日が暮れた後で、
扉の外の草叢からは、夏の訪れを告げる虫の声が
小さく洩れ届くことを知覚すると、今、昼寝から覚めたのではなく、
軆の具合が優れずに、臥していたことを思い出した。
「我が君」
「ああ、寝ておれ、無理をさせるために来たのではないぞ」
「少し、眩んだだけでございます」
「その『少し』がいかん。そちの『少し』は信用ならん」
このような時、
”そちがおらんと、飯が旨くない”
というような本音は言わない。
彼や、彼の弟たちは、たとえば少々の風邪をひいたぐらいでは食も落ちず、むしろ
「食って治す」
あるいは
「食えば治る」
ぐらいの考えで居る上、
胃の腑もそのように出来ているようなのだが、
どうやら我が龍は違うようなのである。
頗る精巧にできているらしい我が龍は、季節の変わり目や、
不測の僅かな環境の変化に、調子を崩すことがある。
一旦、そうなると、薬湯のほかは一日中何も口にしない。
彼ははじめは狼狽し、何か食べさせねばと腐心したが、
「申し訳ございませぬ。……いただいても、きっとあとで戻してしまいますゆえ」
龍は、涙目になって、か弱くそう言うばかりなのだった。
彼もようやく、そのような場合の我が龍に慣れてきて
(嘔いたりなどしたなら、更に軆が辛くなろう)
軍師が、軍師が、と右往左往することを慎み、
そういう軆のつくりなのだと理解に努めるようになってきた。
この日は、強い香りがいけなかった。
城内の視察から帰ってくると、一歩、房室に入るなり、我が龍は扉に縋るように、くらり、と、くずおれかけた。
「いかん」
彼は、龍を扶けおこしながら、原因を探して
素早く室内に視線をめぐらせると、
なにゆえかは知らないが、出掛ける時にはなかった
大輪の百合の花々が、主座の両側に盛るように、
誇らしげに活けられているのを見咎めた。
龍は軆が頑丈とはいえないうえに、
人より五感が敏くできているようで、
無害なはずの百合の花や茉莉の花の類ですらも、
ひとたび過ぎれば、繊細な知覚を刺し貫かれて、
気が遠くなるかのようなのである。
香も、麝香を多く含んだようなものは、濃すぎるようだ。
淡く仄かなものほど、好むような傾向にある。
彼は、ほど近い我が私室にも、
この百合が飾られている状況を恐れて、
そっと左右に言い含めて龍の書童に使いを遣り、
寝台の用意をさせて、傍目には何事もなかったかのように、
血の気の引いた龍の蒼白な手を、冷えた手頸までも
温めるかのように包み込んでゆっくりと引いて扶けながら、
厳として暫時の安静を命じたのである。
かつて、このようなこともあった。
表の私室で、いつものように龍を側近くに寄せて
雑談に興じはじめると、龍はいつになく
だんだんと伏目がちに、忙しなく白い扇を
繰っていると思うたら、ぱたりと扇を取り落として、
白い貌に蒼い脈まで浮くほどに顔色を悪くして
しまったことが何度かあった。
その前後をあとでよくよく考えてみると、
彼は龍に会う前、後苑で嫡子と戯れ遊んでいたのであった。
嫡子はまだ幼いので、女官に囲まれて暮らしている。
(するとどうやら、粉黛じゃな)
彼は、得心が行くと同時に、
そう思い当たったとき、思わず噴き出してしまった。
(このようなことでは、女遊びなども、ついぞ、したことなどもないのだろう)
たとえば悪友に連れられて、妓楼へ上がったとしても、
何も起こらぬうちに、紅白粉の香りに噎せて、
その悪友どもに担ぎ出されて帰るような、
今は知り得ぬ一幕を知ったような心地になりつつ、
なにやら、ほっとするようなものも感じながら、
嫡子が奥を出る年頃になるまでは、戯れたあとには更衣をしよう、と
「気をつけること」の一つを決めたのだった。
かといって、
「あれはならん、これもならん」と、
我が龍の好みに合わせて細細と取り決めを設けるのは、
おそらく龍の心に適うことではなかろうと
察した彼は、彼が気をつけてやればよいと
考えているのだが、彼だけが気をつける結果、
やはり時々に、不測の事態は免れ得ない。
「今宵は、星は出ておらん。天も休めと仰せじゃ」
ひとり、気をつけていることが行き届かず、
彼は詫びを込めながら、安心を誘うように
低い聲音でよびかけた。
「見舞いをな、持って来たのだぞ」
「……?」
龍は、このような時に、彼がもう、無理に食事を与えたりしないことを
知っているので、訝って我が王の面を見詰めて、
小頸を傾げるようにして、視線で問うた。
「丁度良い頃合じゃろう」
彼はそれに笑みで応じて、大きな袖の中から、
小さな虫籠を取り出してみせる。
「我が、君」
虫籠の中には、蛍が光っていた。
誰が合図をするのか、皆、一様に点滅を繰り返す。
「若殿でございますね」
「これ、孔明よ」
彼は、おだやかな口調のまま、
わざと舌打ちを連ねて、おっとりと窘めた。
「斯様な時に、頭を使うでない。儂に喋らせておけばよいではないか」
咎めるような言葉と裏腹に、目尻に笑い皺をたたえている。
「そうじゃ、阿斗の奴め、『廟堂におまいりしていて見つけました』
などと書き付けを結んで寄越しおった」
それならば、父たる彼を蛍見物に誘っても良さそうなものであるが、
わざわざ捕らえて虫籠に入れて贈って寄越すとは、明らかに、
外へ見に行けない者の存在を意識している。
「誰が智恵をつけたのかは知らん。
だが、おそらく、智恵をつけた者の言うがままには書かなかったのだろう。
まだ幼いゆえ、そちが倅の将器をどう見るかを聴くのは差し控えたいが、
儂は、あ奴の、このようなところを好ましく思っておる」
「……隆中を、思い出します」
彼の意を汲んで、嫡子のことに言及するのを避け、
龍はいま心の中を占めたことを、素直に口にした。
「そうじゃな、龍の住処は、清流に囲まれておった。
今頃に訪れたなら、また別天地であったであろう」
秋に、冬に、春に、三度にわたって往来した
龍の庵を、彼も懐かしく思い出す。
三度といわず、何度でも行き来を厭わなかったのであろう
我が王の意志を言外に感じて、龍は何と続けるべきか迷い、
殊更に、長い留守をしている庵の佇まいに気を逸らそうとする。
「田舎のことゆえ、家の中へ、迷い込んで来たものでございます」
「そりゃ、お前に会いたかったのだろうよ」
「なぜでございますか」
「蛍だけではない。蝶だとて、よくお前に止まりたがる」
彼は、めずらしくほつれた龍の鬢の一筋の黒髪を、
まるで花の花弁に触れるように、柔らかに
撫で付けてやると、
「蛍も、儂も、なるべく我が水の傍に居りたいのだよ」
そう囁いて寛い笑みを刷き、
我が懐に攫って匿いたい衝動をかろうじて抑えながら、
そのまま大きな掌で龍の瞼を覆い、眠るようにと促した。
「乘よ、先生がお辛いようであったら、
髷を解いて差し上げよ。儂は今宵はもう来ぬゆえ」
龍の書童には別に名があるが、
乘(かい)とは「お利口さん」というような意味で、
彼が呼び習わしている愛称である。
君前で横たわっていることすら、良しとしない龍が、いくら辛かろうと、
まして髪を解いた姿など、決して見られたくないと
思っているであろうことを見透かして、
彼は童に「来ない」という、優しい約束を残して帰ってゆく。
「それからな、先生がお休みになったら、
蛍を外へ放してやってくれ。むろん、乘も見てからでよいのだぞ」
穏やかな我が王の聲と、はいと答える少年の
応答を夢うつつに聞いて、
(水は、天空や大樹や大海なくんば、
天下を経めぐることなど、少しも出来ぬのでございます)
龍は、心の中で強く念じて、
遠ざかる足音が鼓膜に届く限り追いすがり、
聞こえなくなると、我が王の歩みを測って、
いま何処にどうしているのかを脳裏につぶさに描き、
蛍火のように胸に宿る慕わしさに、瞼のなかで双眸を潤ませていた。