懐君属短夜 (きみをおもう みじかよにぞくし)

2011/07/01

うをとみづ3世紀SS

今上の叔父と呼ばれて久しい彼は、
無位無官の若い頃から人付き合いがよく、顔が広い。

ある年の夏至も過ぎた日の、まだ蝉の鳴かぬ
日差しの強い午後、白髪まじりの恰幅のよい男が彼を訪ねてきた。
身なりの良い商人で、彼に借りを返しに来たと、
取次ぎを乞うて、一刻ほど待ちぼうけ、対面が叶った。

「――や、……欧陽の伯父貴、か?」
「その、でっけぇ耳! 本当に、楼桑の劉さんじゃねえか。
参ったな、すっかり殿様じゃねえかよ、ええ?」
驚きと喜びを、皺がれた声で発して、
老商人は、彼が伸べた腕を懐かしそうに取り、
確かめるように揺すった。

「はは、貧乏所帯は相変わらずですよ。
劉違いであったら、どうなさったのか」
「決まってら。適当に辻褄あわせて、おだてて、
タダ飯食わせてもらって、ドロンだよ」
男は、袖をからげて、忍び足をするような、
歳に似合わぬ仕草をしておどけた。
彼の龍は、二人のにぎやかな話し振りを、
微笑を含んで見守っている。

「これが、儂の大事な知恵袋……。
これなしでは、儂はここまでなっておらんのです。
こちらはな、若い頃な、商いでお世話になった欧陽伯だよ」
彼は、随分と対照的なこの二人を引き合わせ、
交互に視線をそそいで、簡単に紹介した。

「お初にお目にかかります」
「いやあ、どうも……するってぇと、あんたが、巷で噂の、臥龍先生かい?」
翡翠の転がるような聲と、皺枯れ声が前後する。
「はい」
老商人は、歳相応に枯れた笑いを発して
「劉さんよ。あんた昔っから、その真面目なツラして、冗談が好きだ。
かつごうったって、だめだぜぇ。替え玉じゃねえのか?
もっとさあ、こう、范増みてぇな、皺くちゃな意地悪爺さんなんじゃねえのかよ」
気安く、彼の二の腕の辺りを、
皺の目立つ、働き者の手の甲で叩いた。

「意地悪爺さん?」
「北の方ではよ、恐いものなしの『あのかた』が、
皇叔の知恵袋に、散散に煮え湯を飲まされたらしいってな、
そりゃ、あの大戦以来、もっぱらの噂なんだぜ。
それを、……こんなヒョロい、書生風情の若造くんが、とは、
思えんからなあー」

じろじろと、無遠慮な視線が
我が軍師に注がれているのを、些か見苦しく感じて、
「……儂の軍師に難癖をつけに来たのなら、お帰りいただきますぞ」
彼は、温雅な聲音のなかにも、不可侵の領域を
明確に示すように、冗談の薄い調子で続けたので、
『このような聲のときの劉さんは』という記憶が、
過去から蘇ったのか、
「なんだよ、ほんとなのかよ。そんなら早く言ってくれろよ」
老商人は慌てて続けた。

「言いましたぞ。お疑いになったのは欧陽伯のほうですぞ」
「悪ぃ。おら、昔ッから、独り合点でいけねえ。
なにとぞお許しくだされ、ええと、『皇叔』」
「いやいやご丁寧に」

わかればよい。
彼は目尻にも、元通りの穏やかさを湛えて拱手に応じ、
「どうせならば……留侯を引き合いに願いたかったですな、
これは、留侯以上ではあるが」
と、機嫌ななめならず言うたので、その様子を見てほっとして、
老商人は再び調子を取り戻し、軽口をたたき始める。

「おいおい、聞こえるぜえ、『あのかた』の懐刀より上だって
言ってるようなもんじゃねぇかよ、危ねぇな」
「望むところですよ」
(褒めすぎです)
とでも言いたげに、白い羽の扇を繰って俯く
ゆかしい我が龍を横目に、彼は、おっとりと笑ってみせる。

「はあー、たまげたねえ……、ま、劉さんがつるもうってんだ、
この先生も、相当な変わりもんってとこだろ。どうだ、図星だろ」
「変わり者……というよりも、またと得難い、といったところですよ」
「ふうん……? 相変わらず大風呂敷だな、おい」
ちょっと賢くて若い使える書生なら、
いくらでも居そうだが、と、分からぬ態をしている。

商人は、どの城に活気があって、今後伸びるのはどこで、
どこで何がより高く売れるのか、その機微を知っていれば良い。
この世で唯一条の龍が、彼の為に何を謀り、
三日で十萬本の箭をどう調達したか、
いかにして東南の風を呼んだのか、
そも、神か怪異か、という詳しい働きなど、知り得るはずもない。

「貧乏暇なしなもので、まずは客舎でおくつろぎください。
積もる話もあります。今宵は大いに飲みましょう」
彼は、今は長話ができないことと、
後ほど一席もうける心積もりを婉曲に述べる。
「おう、それでこそ劉さんだ。話せるぜ。
あんた、変わんねぇな。その気風のよさも、昔のまんまだ。
もういっそ、おらも荊州に引っ越しちまおうかな」
その意図を汲んで、老商人の口からは、つい世辞の一つも滑り出た。

「よいのですかな、ご在所を擲って。
商いは『地盤看板金庫番』とおおせだったのは、伯父貴ですぞ」
「はは、違えねぇや」
北方訛り丸出しの、飾らない遣り取りを見守りながら、
(この人は、献金にやってきたのだろう)
龍は、白い額のなかで、そのように推し量った。

昔の借りとは、具体的にどんな借りか、
それは分からないが、我が王を日夜見ていれば、
その昔、この老商人の、止むにやまれぬ事情による窮地を、
一文の得にもならないというのに、
手助けしたのであろうことぐらいは、察しがつく。

金銭の授受は、書面で明朗にしておくべきことだが、
この件は、仮に算盤にひきうつしたなら、の話であり、
額面の多寡を問わず、賄賂という色のない話である。
龍は、このことに深入りしないほうが得策だと考えた。

そのような配慮から、宴への同席を遠慮する様子の
我が龍の賢明を思い遣り、
「では餐は、別に届けさせるゆえ、
残しても構わぬから、全部に箸をつけよ。よいか」
と、彼は念を押して、まだ涼風の吹かない
早くも夏の気配の日暮れに、薄い背を見送り、
昔馴染みとの旧交をあたためるべく、痛飲したのだった。


彼の龍は、その夜更けに、常よりも離れた楼を選んで、
星空を観ていた。ついでに、気晴らしに
琴などを弄んでみようと思ったのだ。

私室で奏でていては、誰かの耳に入り、
無用な詮索を受けるかも知れぬことが、煩わしかった。

それなのに、何を弾こうかも思いつかず、
ただの飾りのように押し黙ったままの琴を前に、
龍は、ひたすら北天を仰いで時を忘れていた。

地熱の揺らぎが天を曇らせるような季節にも、
辺りを払うが如き我が王の清き星影を仰いでいると、
彼と語らっている心地がするのだった。

先の大戦の折にも、
この星影を頼りに、よく独りで夜釣りをしたものである。
斯様な思い出にまで耽っていると、
糸のように細い微かな流れ星が、
将星のすぐそばを掠めて一瞬にして消えた。

(……不吉な)
龍は眉を顰め、やや思案してから、
琴を物陰に移して、楼台をおりていった。


琴で手が塞がっていたこともあるが、
慣れている場所であり、灯火は持ってきていない。

昼間の会話の様子と、天文の具合から、
あの老商人が刺客であるというような物物しいことは、
まず、考えにくい。

そうではあるが、他ならぬ我が王の星のことで、
何の兆しであったのか、龍は気がかりである。
客舎にはゆかず、彼の表の臥室の宿直の者に質そうと、
まだ明ける気配もない真夜中、
双眸を閉じてさえ歩けよう道を急いだ。

墻を巡ったところで、不意に現れた人影とぶつかった。

「あっ、失礼いたしました、殿様のお通りです」
「誰かな。夜間ご苦労である」
慌てる若い声に続いて、聴き違うべくもないあの聲音が
白い耳に届いたが、呂律ではなく、滑舌が怪しい。

「我が君……?」
彼は、着慣れた寝衣に、愛用の蒼い衣を引っ掛けて、
宿直の小姓ひとりに小さな灯火をもたせていて、
それを掲げさせ、我が龍の白皙を認めると、喜色をあらわし、
「おお。助けに来てくれたのか。お前のところに匿うてもらおうと思って、出てきたのだ」
と、大きな両の手で、白い手をとる。
「いかがあそばしましたか」

夜目遠目傘のうち、とはいうが、真夜中にばったりと出逢った龍は、
薄い水色の軽装の襟を深く清げに合わせて、
まるで香気を含んだ微風を纏っているようであった。

酔漢同士折り重なるような状態で居た
むさくるしい寝所から出てきた彼は、
その涼しきたたずまいに、ふるいつきたいほどの
衝動を覚えたが、それを抑制できるぐらいに、酒は抜けていた。

「……迂闊で、あったよ」
「まさか、何ぞ狼藉が」
やはり、何事かはあったのだと、気色をあらためて、龍は問うた。
「欧陽伯は、大酔すると、前後不覚じゃ。忘れておった」
「え」
「厠から帰ってきたと思うたら、頬を踏まれてしもうた。
高鼾も霹靂の如しじゃ。もう寝るどころではない。
おお、……ようやく血が止まったわい」

酔っているがためではなく、
思わぬ怪我のための、歯切れの悪さであった。
「客舎にお移しして、お休みいただいては……?」
どのみち、相手は酔漢である。
別な室の床へ担ぎ出してしまっても、朝にはけろりと忘れていよう。

「いやいや、それでは、知らぬは伯父貴ひとりになり、気の毒ゆえ。
それにな、勢いで、共寝をしようと言うたは、儂のほうじゃ。
あのお人は朝寝をしようからな、
儂は先に起きていた態にしておいてやるのが、互いに都合が良い。
気分よう、別れられる」

彼は、頬をさすりながら、己が歯で圧されて切れた頬の内側を
気にするように、もごもごと発語して、
痛みと其の事は別儀という風に笑った。

「そちこそ、今時分まで何をしておったのだ。
夜更かしはいかんと、あれほど言うておろうが。……これ」
結い上げられた黒髪の、少しも寝乱れていない
櫛目の通った様子を目ざとくみつけて、
鬢のあたりを指の甲で微かに撫でてから、
「執務ではなかろうな」
覗き込むようにして、問い質す。
その眼光は、どうやらもう酔ってなどいない。
普段の彼の、意外にごまかしの効かないあの視線である。

執務であったなら、小言が暫く続くことを知っている小姓は、
(どうか、ご執務でないように)
と、念じているのか、思わずハッと低頭していた。

決して、言葉荒く叱責するわけではなく、
諄諄と諭すような小言なのだが、彼がひとこと發するたびに、
この天下に唯一の龍の軍師は、その細い軆をしょんぼりと、縮めてしまうように見えて、いかにも気の毒なので、小姓は俯くのである。

「久しぶりに、琴などを弾じておりましたら、時を忘れてしまい……」
言いよどみ、まなざしが泳ぐ。
弾じようと思ったのは本当だが、実際には弾じてはいない。
「まことは、星を観ていたのではないのか」
「……」
「でなければ、卜いか。なぜ今、これへ来た」
「……はい」

我が龍が双眸を伏せて、
睫の長い影が灯火に揺れるばかりなので、
「はいでは分からん。
黙っておると、さびしゅうて来たと、自惚れるぞ」
からかう口調で、促した。
「御星を、観ておりました」
「よし。素直でよろしい。参ろう」
即答に、彼は痛む口腔の咽喉奥で笑いをかみ殺す。
(さびしゅうて構わぬものを、左様に、たちどころに打ち消さずともよかろうが)


道すがら、
「なぜ、わたくしめの処などへ」
我が龍はおずおずと問うので、
「お前のところには、昼寝用のあの寝台もあろう。あれを借りたい」
彼は、かねてからのささやかな念願を口にした。

「あれは……、我が君には狭うございます」
「お前の寝台を取り上げる気はない。
加えて言えば、臥龍先生がお昼寝をなさっていた寝台を、ぜひ一度拝借いたしたい」
「……お戯れ、を」
「ならばお前の寝台に共に寝る」
「それはもっとご無理でございます」
「されば貸せ」
「……はい」

(やはり、まだお酔いになっておられるのだろう)
というようなやりとりを交わしたのだった。

召し連れた小姓の働きで、今は持ち主にほとんど使われていない、
書斎の隣室の寝台は手早く整えられ、
彼は、望みどおりにそこへ横たわると、
明日の朝、着替えを持って来るように命じて、小姓を帰してしまった。

「明朝は、普段どおりに起きるぞ。寝こけておるようなら、構わんから起こせよ」
と、語尾も眠気にぼやけるように言い終えて、
それから三つも数えぬうちに、寝息を立て始める。

もう眠ってしまったのであろうと見え、
(今宵は、ご災難なことでございました)
龍が、我が王の粗い頬に手を添えたいような思いで、
ようやく安眠の場所を得た穏やかな寝顔を
しげしげ見ていると、彼はもぞりと大きく寝返りを打った。

まだ酒が残っていて暑さを感じたのか、
先ほど派手に蹴飛ばして、
腹のあたりにだけ被った夜具を再び手繰り寄せて、
長い腕の中にすると、
痛むはずの頬を擦り付けるように貌を埋め、
低く呻いてから、徐に口髭を動かして、緩慢に寝言を紡いだ。

「……孔、明」
龍は、あ、と聲を立てそうになった口元を袖で覆った。

彼の口元の、落ちきらなかった僅かな血糊が、
昏い中にやけに鮮明に見え、彼が腕にした夜具が、
何か別のものと見紛うようで、心の臓が、にわかに早鐘を打った。

微動だにできずに立ち尽くして息まで潜めていると、
それきり彼は何も言わず、空蝉を抱いて
ぐっすりと寝入ってしまっている。
(我が君は、きっと、お酔いになっておられるのだから)

夏の短夜には、ようやく細い月が昇ってきて、
薄目を開けて、固唾を呑むように
この様子を見守っていた。