秋聲牀上五更夢 (しゅうせいしょうじょうごこうのゆめ)

2011/09/01

うをとみづ3世紀SS

今上の叔父であり、
いま荊州の南端の夏口に踏みとどまり、
新野を焼いて以来の、臥室で眠れる日々を取り戻した彼は、
鈴を振るような秋の虫の聲に目覚めかけた。

昼間はまだ晩夏の蝉が鳴くのであるが、
朝晩はしのぎやすくなってきた。
今朝は驚くほどに冷涼な微風を覚え、
虫の音は、いま草花に露がおりつつあることを
知らせているかのように涼やかで賑わしかった。

頭は眠気で回らぬが、鼻腔の奥に、
我が龍の懐の香嚢が發する香りを聞きながら
さらさらとした手触りの、仄かに温かいまろやかなところに、
その大きな掌を置いていた。
そこを無意識に撫でようとして、

(……いや、待て)
蠢こうとした五指を制して、
(や、これはいかん)
目を開けるまでもなく、
この感触は、龍に貸し与えている我が寝衣なので、
あの行儀の良い膝に手を遣ってしまっているこの様子が
見えるようで、彼は慌てた。

彼は普段、絹物をあまり用いない。
夏の寝衣は、麻と葛との交織のざっくりとした、
風通しの良い簡素なもの好んで着る。

この宵は水色の、互いにまるで揃いのような
薄い寝衣を纏っていたはずだった。

加えて、牀上には我が龍の香りが品よく仄かにたゆたっており、
淡い夢の中ですら、ここが奥ではないことを
よく弁えてはいたはずである。

傍らに臥しているのが、先の戦で喪った夫人でもなく、
いま病がちで養生している夫人でもないことは、
知った上で、やはり無意識にこうしていたのかと、
そっと溜め息をついた。
帯よりも下に手を遣っているのが、
何やら厭らしい気がして、
その長い腕をそっと引っ込めようとした。

引っ込めようとして微かに動き得たのは、
手首のあたりだけで、
眠気に暈ける感覚をたどると、
夜具の中で長い腕は、
何と我が龍の細い両腕に抱かれるように奪われている。

肩のあたりに、どうやらあの白い額が圧しつけられているようだ。
彼は、にわかに動悸を覚える。
今その巨きな耳に、虫の音は既に聞こえていない。

召しだしたばかりの春ごろ、しんしんとした晩に、
この細く冷えやすい爪先を脛の辺りで温めてやったり、
夜具の上から、遠慮がちに、その大きな袖を重ねて
氷のように冷たい白い耳を掌で覆って庇ってやったりと、
親鳥と小鳥が巣に眠るが如くに添うて寝に就いてきた。

そのついでに、倹約した灯りの中でしばらく、
白い頬に落ちる睫の影の揺らぎを見るともなく見たり、
燭のまたたきに映える黒髪の艶の風情に酔うたりと、
彼だけに許されたひとときを過ごすのである。

五十を前にする歳を数え始めて、
今日のように夜半や早朝に眠りが浅くなる日が
時おりにあるようになったが、
彼は龍の白い寝姿に見とれたりして満足しているので、
これを健康上の障りに考えたことがない。

夜の闇に、思い余って、
まるで童にしてやるように髪を撫でてやりたい
心地にすらなるのだが、さすがにそれは、慎んでいる。

もしも夜半に龍がめざめても、
何も後ろめたいことをしてはいなかったが、
彼がそうしていることを知ってか知らずか、
我が龍はいつも寝返り一つさえ打たずに、
与えられた衣に埋もれるようになって、
いつも絶え入るように眠ってしまっていた。

それが、今朝はどうしたというのか、
龍は甘えるかのように、それとも懐くように、
仰臥する彼の長い左腕にしがみついて眠っている。

夜明け前の冷え込みに、ただ
ぬくもりを探しただけであったとしても、
このようなことは初めてで、
彼はどうすればよいのか、分からなくなりそうだった。

否、もう片方の腕をも伸ばして、
その寛い懐に、我が掌中の珠玉を
すっかりいだきしめてしまおうという思いすら
よぎったことを、戒めたのかもしれない。

彼は、横臥して屈めた龍の膝に
大きな掌を乗せたまま、動けもしないで、
じわりと、腋に悦びの汗を滲ませている。

彼は、このような自分が
おかしいのではないかと疑ったことはない。

まるで今日あの隆中の草庵から
召しだしたばかりのではないかというほど、
はっと眸が洗われるような一刹那を、
彼はいまだに感じている。
そのたびに、どれほど我が龍に心を奪われてしまったのか、
彼は日々ありありと新たに覚えるばかりである。

衆目があろうとなかろうと、庇護欲のごときが溢れ出して、
その言うところに耳を傾け、その肩を抱き、その背を推し、
その手を親しく執って歩いてしまうのだ。

寵があまりに露わにならぬように気をつけてはいるつもりなのだが、
心と軆は不可分で、慎もうとする前に
口も手も既に出てしまっていることがたびたびである。

当初、不摂生な龍をみかねたこともあり、
ともに餐と寝に就かせることになったのだが、
我が龍もこの起居に慣れて、異を唱えはしないものの、
實は不服であるのに君命に従っているだけなのではないかと、
ふと頼りなさを感ずることが、時々にありはした。

(……そうじゃ、今朝は寝起きの悪いふりをしてしまおう)
毎朝、何となく互いに起き出す気配を感じて、
「お目覚めですか、我が君」
「おう。よう眠れたか、孔明」
などという挨拶を合図に、
彼は大きく伸びをし、起き抜けとは思えない
涼しい容貌を視界いっぱいに映して、
それこそ目が覚めるような心地で朝を迎えるのだが、
今朝は得意の狸寝入りを決め込んでみることにした。

膝に掌を置かれていることを何と捉えるのか、
それとも、こうして主君の腕に縋りついて
眠っていた事実をどう考えるのか、
そして、どちらをより重く見るのか、
何とも思わぬのか、密かに探りたい欲望が湧き上がった。

(しかし、それしきではなるまい。あの澄まし貌の色が変わるのかどうかまでを、
見届けられんのは惜しいではないか)
夢うつつとは思えないほどの閃きで、
彼は老獪に思い巡らす。

――お目覚めでございますか、我が君
――む……もう朝であるか。夜中に目覚めてしまってな、
  ちと眠り足りぬ心地がする。……お前はよう眠れたか。

この一言で、
一を聞いて十を知る我が龍ならば、今の様子を必ず悟ろう。
仮に、目覚めてから彼の腕を解いてしまったとしても、
彼の眠たげな聲に絆されて、眠りを妨げたであろうことを詫びるのではないか。

寝乱れもせず揃えた膝に、うっすらと汗ばんだ大きな掌を乗せたまま、
彼は身動きもできずに、嬉しき五更を楽しんでいた。