輕舟已兆臨江亭(けいしゅうすでにきざす りんこうてい)

2011/10/01

3世紀被害譚SS

今上の叔父を通称としつつも、江東ではまるで敵のように姓名を呼び捨てにされている彼に、諸葛子瑜は成都でまみえ、使者の役目を無事に果たして、
なお荊州への旅路にあった。

途中、「魯」の旗を掲げた早船に行きあい、急使かと緊張の面持ちで船を待つと、思いがけず魯子敬みずからが、呉侯の意をうけていた。

「上首尾であれば一刻も早く、ご家族を獄から解き放とうと、主公は、それはもう、お気に病んでおいでです」

船上で、小宴が張られた。

当面の、国の悲願である荊州返還が、ついに現実のものをなる日が来る喜びと、このたび使者にたった諸葛子瑜への、敬意と慰労のためである。
益州を制した彼から、かねての約定どおりに荊州を江東へ返還させようという使命は、今までになく厳しいものになりつつあった。

もし彼が難色を示すようであれば、諸葛子瑜の一族を誅殺するという脅しも加えるべく、呉侯は心ならずも、諸葛家の者を獄につないだ。
軟禁ぐらいでは見透かされようと、本当に監禁してしまった。

「妹が孕んででもいたならば良かったものを。姑息を許せ。瑾。そちには何の咎もないというに」
出立のまえに、そうまで言った呉侯の憂い顔は、
二人の記憶に新しい。

「あのしたたかな劉使君から、ようもまあ、譲歩を引き出されましたな。
さすがは、子瑜どの。わたしとは大違いです」
この二人は、多少の敬意を込めて、このような時はうちうちで、彼を使君と呼んでいる。さすがに、今上の叔父の美称は、彼を目の前にしたとき以外は用いない。

「何の、以前に子敬どのが、念書をとってくださったことが、ここで生きたと申せましょう。……とりあえずの三郡でありますし、まだまだ先は長い」
「いやいや。あの時は、亡き大都督の失笑を買いましたがな。喜ばしい限りです。さあ、一献まいりましょう」
「喜んで」

穏健派にみえる魯子敬とて、国益にかんがみ、荊州は一日も早く取り戻したい。
亡き周都督ですらも為しえなかったこのことは、知略や武力のみに訴えては、
到底かなえられようはずもなかった。
時の趨勢と、昔日の、魯子敬の骨折り損の一つである『益州を領有したなら荊州は返還する』という趣の一通の念書が頼みという、甚だ心もとない問題であった。

「国益のためとはいえ、ご家族には辛い思いをさせてしもうた。主公も、このことばかりはお心を痛めて、あれから溜息ばかりおつきです」
「主公はお優しいお方です。このたびの並並ならぬご決意、わたしも必ずお役目を果たさねば。主公に我が家族を害させる結果など、ゆめ招いてはならぬと……。家族はもちろんのこと、主公のご苦衷を思えば……」
そこまでわが主を追い詰めるに至りはじめている、荊州の領有問題に、道中ずっと、頭が痛かった。

「やはり、今回のご使者は、臥龍先生の兄君である子瑜どのを措いては、誰もなしえませんでしたでしょう。……わたしなどが、のこのこと出かけては、またもや先生の舌先三寸に丸め込まれて、子供の遣いです」
魯子敬は、謙遜でなく、本心からそう思って、諸葛子瑜に杯をすすめる。

「……兄弟の情、も、少しは役に立ち申したが……」
なにやら、積年の一国の大事が、一使者の往復であっさりと決しかけていることが不安な、諸葛子瑜である。
「かねて連署した念書もあり、また、兄上の窮状を目のあたりにしては、さすがの臥龍先生も折れましたでしょう」
魯子敬には、還そうかという彼の温厚な表情と、『兄の家族は殺されなどいたしません』と、長兄を論破しにかかる、まさに彼の懐刀の、龍の冷たいほどに澄んだ双眸が、見えるようだった。

「いや、折り合うてくださったのは劉使君でしてな、弟は、跪いて口添えまでしてくれた」
「何と。あのご主君第一の臥龍先生が、そこまで」
「解せんのですよ。わたしが弟なら、たとえ本当に弟一家が皆殺しになろうとも、
主公と国の御為に荊州を渡せぬ。己の良心が痛いなら、そのあとで殉じよう」
「……まさか、今回の三郡返還も、履行されぬ、と」
「さて……なんとも言いかねます。
確かに親書は、いただいたのではありますからな」
公事が、私情で決められてしまったような不確かさが、諸葛子瑜を不安にさせる。

成都に君臨した彼は、いよいよに王風を加えていた。

諸葛子瑜の口上を聞き、めずらしく怒気を発して、はじめは、呉侯の親書に目もくれなかった。

特に、呉侯の妹姫を正夫人に押し付けておきながら、彼がこの益州へ進駐している隙に、勝手に帰国させたあの一事も、事態を悪い方向へと招く気配であった。

「話にならぬ、と呉侯に伝えよ。今日は客舎にお泊りのうえ、明日出立せよ。孔明、来よ」
彼はそう言い捨てながら龍を伴って座を立ち、諸葛子瑜が「お待ちくださりませ」と言い縋る暇さえ与えず、奥へ隠れてしまった。

かといって、それで引き下がる諸葛子瑜ではない。

客舎を追い出されるならば、成都のどこかの客桟にでも泊まって粘ろうと思っていたが、意外にも二日目、三日目を過ぎても、宛がわれた宿舎の部屋へ、追い出しの命を受けた役人は現れない。

(……孔明……?)
客舎にぽつねんと逗留する諸葛子瑜は、どうやら、彼が言い放った「明日出立せよ」を真に受けずに居てもよいようだ、と、少し安堵した。

とはいえ流石に、五、六日を経過すると
(まさか、このまま引見せず放っておく算段か?)
とも思えてきた。

龍は、私邸にほとんど帰って来ない。
私的な時間を使って龍に会うことが難しい以上、諸葛子瑜が頼るべき者は一人だ。
念のため諸葛府を訪れて、龍の妻女・黄月英に取りなしを請うておくことにした。

黄月英は、龍の伴侶に相応しい類い稀なる智者である。
諸葛子瑜の家族が、東呉の獄に繋がれたことを、単なる見せかけに終わらない可能性があることを見抜いていた。

「大哥。諸葛家の一大事です。ここはどうでも、臥龍先生に何とかしていただかねば。お任せください。直ちに使いをやります」

黄月英は、小柄で化粧気のない相変わらずの姿ながら、キリリとした表情をして、磨き抜かれた珠のように澄んだ両眼に強い意志を漂わせ、諸葛子瑜の心を支えた。


その後また数日が経過したところ、ようやく諸葛子瑜の宿舎を役人が訪れ
「明日巳の刻、東呉のお使者に主公がお会いになります」
と、伝言を寄こしてきた。

ようやく彼との面談にこぎつけた諸葛子瑜であったが、果たして、一の臣の係累の安否ごときが、どれほど彼を動かす材料になり得るのか、諸葛子瑜には疑問であった。

諸葛子瑜と不機嫌な彼の間で、いくつか質疑応答が続いた後
「……我が君」
いつの間にか、弟は諸葛子瑜の隣に歩み寄り並んでおり

「このお役目が不調に終われば、兄の一家は皆殺しの罰を受けます。
ご存知のとおり、呉侯は兄を重用しておられますが、いつ心を鬼になさるかわかりませぬ。……そうなれば、わたくしも九泉の父母へ、詫びにゆくほかは御座いませぬ。どうか、我ら兄弟を哀れと思し召して……」

涙聲で彼に訴えると跪き、叩頭までして嘆願に及んでくれたのだった。

「ばかっ、亮っ。よさぬか」
聡明な頭脳を、床に何度も叩きつけるので、諸葛子瑜は大いに慌てて短かく叱り、細い軆に取り縋って扶け起こそうとした。
自分も共に叩頭するのは、主と仰ぐ呉侯の面目上、できかねた。
何があろうと、呉侯以外に対して跪く気などない。

そこへ、階の段を飛ばして降りてくる大股な足音と衣擦れの音が急に近づくと、
彼は床に片膝をつき、我が龍の叩頭を長い両腕で押し留めて、
「わかった、差し許すゆえ、もうやめい」
打ち付けた額を撫でんばかりに、その身を親しく懐にして、使者である諸葛子瑜など、眼中になき如きであった。

(……)
この問題が、弟の叩頭ひとつでどう変化するのか、固唾を呑みながら、よも君臣とは思えない景色を呆然と見ていると
「こうまでせずとも、お前の願いを無碍にできようか。儂の壽が縮むではないか」
なにやら、互いに涙目になりながら、見つめ合っている。

「御用の趣は、孔明の兄を思う心に免じて聞き届けよう。……まず、長沙・零陵・桂陽の三郡を割譲してつかわす。そのあとはまた合議しよう。これより書面にしたためるゆえ、客舎にて待たれよ。ご苦労であった」

彼は我が龍のほそい軆に長い腕をめぐらせて、肘を扶けるように包んで、ゆっくりと立ち上がりながら、あいた手には、投げ出された白い羽の扇を握り、そう請けあって案内の者を呼ぶと、諸葛子瑜を返してしまった。

翌日、約束通りの内容の書面を得はしたが、
(子敬どののお取りになった念書に基づくのではなく、どう見ても私情に絆されておるところが、喜んでよいものかどうか、わからぬ)
と、諸葛子瑜は、やはり腑に落ちない。
「かねての約定の通り」ではなく、なぜ「兄を思う心に免じて」なのか、この理屈が、どうもよく分からなかった。

諸葛子瑜は、この君臣が打ち揃っているところをこのたび初めて見たのだが、
今まで、さまざまな用件でいろいろな主従のありようを見てきたというのに、あのような君臣は見たことがない。
(まるきり、劉使君と孔明の、独断ではないか。二人はよいとしても、諸卿・諸将は、これで納得するのか。合議を重んじる我らが江東とは、違いすぎる)

それぞれに国柄はあろうが、諸葛子瑜としては、魯子敬のような篤実な重臣が、ほかに誰一人として、その場に居合わせなかったことも、心配のひとつである。
また、たとえば寵臣という言葉は、阿諛の如き匂いがして嫌悪していたのだが、弟は重臣にして、紛れもなく寵臣であった。

「……そのような訳で、ううむ、これは、弟と劉使君を
並べて見たことのある者にしか、わからんかも知れませんがな、
……つまり、主公にも、お分かりにはならぬかも知れぬという意味ですが……。亡き周都督はもちろん、子敬どのも、長年手を焼いておられる理由に、少しだけ得心がまいったような。……なんとも、掴み所がない」
「ふぅむ、ちと、気にならぬこともないが……いやいや、このたびばかりは、劉使君だとて」

散散に翻弄されてきた如きの魯子敬すら、今回こそはと、喜び勇んで杯を重ねていた。

諸葛子瑜の不安は、杞憂ではなかった。
親書をしたためる彼と龍とは、墨を磨りながら、あの時やはり密談に及んでいた。
「いまや、お前の諱を呼んでよいのは儂だけと思い込んでおったが、お兄上がおられたのを忘れておった。と、なれば、じゃ、お前の大事な兄上は、儂にも大事ではないか。儂は、荊州を還す気などないが、情に忍びなかった。……孔明よ、許せ。良策はあるか」
「されば、お髯殿にお含みが伝わるよう、……斯くお書きあそばせ」

彼は、翡翠の転がるような澄んだ聲が紡ぐ言葉を、違うことなく、おおらかな筆跡で追いながら
「まったく、整うた貌が、台無しではないか。驚かせおって」
硯に向かうよりも何よりも先に醫師を召して湿布をさせた額を筆軸の端で指し示し、甘い聲音で窘めて、一体どちらが大事か分からぬ態であった。

「謀りごとは、容貌でするものではございません」
「わかっておるわ。じゃが、仮に儂の目が盲いておったとしても、やはりそなたを召し抱えたであろうぞ」

而るに、叩頭して兄の家族の命乞いをしたい心に嘘はなく、それを哀れと思う心にも偽りはなく、情も国益も手離さないこの君臣の稀なる揺るぎのなさを、
本当に分かっている者など、ほかに居ないのかも知れなかった。