襄陽の城には、小規模な学問所が、そこかしこに開講されている。
身分の上下を問わず、向学心のある者や優秀な人材を、あたら見逃すまいという政策の一環でもあるが、貧しい者からは束脩をとらぬかわりに、修学した典籍の筆写を城の書庫に物納させることに定めたのも、見逃せない一事である。
府の書庫には瞬く間に古典の竹簡が増えるので、市井の学問所に惜しげなく貸し出すことができる。 それを貸し出して学ばせれば、また写本が増える。
この学術振興策は、襄陽の地の利に王城の風を加えるばかりではなく、我が龍が我が為に焼いた新野の城への償いでもあった。
彼は、時間をみつけては、学問所を視察することを好んだ。
新年も半月ばかり過ぎて、彼は、ゆかしい我が龍とともに、おしのびの視察から府への帰途にあった。
いずこでも、挨拶の礼をとろうとする講師に対して、長い腕を挙げてそれを無言で押しとどめ、並んで座った幼い背が、声を揃えて、詩経や論語をゆっくりと明朗に棒読みしている様子を、彼は双眸を細めて眩しげに見守って回った。
「ちと、早く済んだような気がするな」
大街に出てから大凶馬に機嫌よく騎して、彼は半馬身後ろに付き従う龍を顧みた。
龍は、大人しい気性の栗毛の駒を寄せて
「もう一箇所、お運びあそばしますか」
この様な場合も想定していたらしき言の葉で応じた。
「それでは遅うなろう」
「はい。おそらく一刻ばかり」
この龍は案外に寡黙である。重大な岐路でない限り、彼が意見を求めないうちは、指図がましいことを一言も言わない。
「お前が道順をよう考えてくれたお陰で捗ったのだ。欲張るまい」
彼は、商舗の外壁の向こうに、高く枝を伸ばした満開の蝋梅を見つけ、それを背にしてなお白く整うた貌に見蕩れてそう言ったのだが、我が龍は、彼に小功を労われたことが嬉しいのか、馬上ながら拱手して礼を執ると、手綱を取り直し、再び半馬身下がって、徒歩の者どもへ、府へ帰還する下知を伝えようとした。
「待て」
大凶馬の手綱を引きながら、彼は我が龍に問いかけた。
「はい」
「刻限どおりというのも、儂の大事な勤めと考えるが、どうか」
「左様でございます」
「どうじゃ、お前が作ってくれた一刻を寄り道に使うて、刻限どおりに帰るというのは」
「使いをお出しになれば、お早くお帰りでもお気遣いには及びませぬ」
「これ、孔明」
「はい」
「そなたは、時々、鈍い」
「え」
「一刻、儂に付き合えと言うておるのだぞ」
「あ……。ですが」
彼はそこでするりと馬を降りたため、龍も慌てて従って下馬したので、彼を制することに遅れをとった。
「皆、本日は朝からご苦労であった。軍師と皆の働きで早う済んだによって、的盧と軍師の馬を厩へ戻したら、今日は下がって休むがよい。儂らは『刻限どおりに』帰ると伝えい。城内ゆえ、儂らの心配も無用じゃ」
不意の思いつきに驚いた我が龍が数え切れないほどの用心を思いめぐらして言いよどんだ隙に、彼は素早く命を發し、供の者に愛馬の手綱を渡すと、
「さあ、ゆこうか」
少し冷たくなった白い手を執って、先にたって歩き始めた。
「襄陽は、まこと、よい城だ」
「左様でございます」
黄昏前の市場は売り声も賑わしく、水運と陸路の利便に恵まれた襄陽という城市が必然的に持つに至った力に溢れている。
「確かな、繁盛している肉屋の横丁に、良い茶楼があると聴いたのだ」
「ようご存知で」
「扁額はな、『無孔笛』。そのよい眼で探してくれぬか」
「……らしからぬ、面白き名でございますね」
「三弟の嫁の、お墨付きだからのう、気になっておった」
楼といえば、二階建て以上であり、その扁額はすぐに見つかったので、彼は、漢隷体の大きな文字を見上げながら、
「そなた、持ち合わせはあるか」
と、我が龍に戯れた。
「我が君」
龍は淡く笑んで応じる。
「ありませんでしたら、如何なさるおつもりだったのですか」
「そうだな……。今日はこのようななりであるし、質にできるものもない。儂を人質に、ご苦労だがやはりそなたに細かい銀子を持ってきてもらうしかないであろうな」
彼は、戴冠もせずに簪一本で結った頭をめぐらせ、長袍とはいえ、質素な衣の袖を控えめに広げて言うた。
「主君を質にする臣などおりませぬ」
「いかんか。臣を質にしとうない主が居ては」
「小者も皆、お返しとは」
「お前と二人して、ぶらぶらとしたかったのだ。やむを得まい」
どこの国に、我が軍師と二人で街歩きがしたい主君がおるのであろうか。そのおかしな君主は、襄陽の城の一番人気の茶楼の門口に、いま確かに立っている。
「冗談じゃ。儂とて急の用に備えて、常にいくばくかは持っておる。案ずるな」
と、右手で叩いた懐中には恐らく一両銀と、銀の細かい粒や銅銭が収まっているのであろう。叩き上げで世情に通じた彼ならではである。
龍が案内を請おうとするのに、彼はそれを制して先に立ち
「二階は空いておるかな」
茶楼の店先の若造に問いかけた。
「いらっしゃいませ旦那様。ちょうど空いてございます。お二人様ですか? すぐに案内させます。おーい!」
愛想良く応じて、奥にも声をかけた若造に、
「雅座がよいのだが」
彼は、まるで常連の客のように話しかける。
「旦那様はご運がおよろしい。お約束のお客は、夜まで丁度ございませんのです」
二階へ案内しながら、若造は雅座がととのっていることを遠目に見て、
「どうぞ、旦那様、若旦那様」
奥の、大きな円い二面の窓を配した卓へと誘った。
「お茶は花茶が自慢でございますが、酒もございます」
彼は初めてではないようにみなして、若造は、何となく、龍に向かって紹介するように言うた。
「茶をもらおう。それから、菓子を適当に」
「かしこまりました」
若造は、きびきびと接客して、階下へ降りてゆく。
彼らには聞こえなかったのだが、配膳のついでに、
「あのさ、雅座に、お上品な親子が来てるからさ、ちょっと挨拶してみてな、よさげなら、あんまり下世話じゃないやつを、二、三曲頼むよ」
と、また奥へひと声かけて、若造は給仕に回っていった。
「……なにやら、楽しいのう、『若旦那様』」
彼は、咽喉奥で笑いながら、上機嫌である。
「あのな、三弟が言うことにはな。
『うちのかみさんがでスよ、
”もしも軍師様に怒られて一杯奢って詫びを入れる
ようなことがあったら、絶対、あそこの二階の雅座で
お茶を一杯差し上げろ、きっと許してくださる、
だから覚えとけ”
って言うんでスよ。何ていうんスか、
眺めがどうだとか、調度が何だとか、
そうだ、楽の音がナンダトカ、退屈なことぬかしてましたっス。
せいぜい、お怒りを蒙らないように耳の穴かっぽじって、
よくよくお下知を聴くことにしまス。
酒楼なら、一度で舌が覚えるってのにでスよ』
……と、な。言うておったのじゃよ。『若旦那様』」
『若旦那様』を気に入ったらしき彼が、笑い興じて龍にそう言うて聴かせていると、
「旦那様、若旦那様、お待たせいたしました。どうぞごゆっくり」
茶器と菓子の皿が運ばれて来るのであった。
「いただこうか『若旦那様』」
「はい……『旦那様』」
思いがけず、我が龍も興じたので、彼は頬を緩めてから蓋碗の蓋をとりあげ、
「熱いから、気をつけるのだぞ」
と、こればかりは普段の調子で言うた。
身分の上下を問わず、向学心のある者や優秀な人材を、あたら見逃すまいという政策の一環でもあるが、貧しい者からは束脩をとらぬかわりに、修学した典籍の筆写を城の書庫に物納させることに定めたのも、見逃せない一事である。
府の書庫には瞬く間に古典の竹簡が増えるので、市井の学問所に惜しげなく貸し出すことができる。 それを貸し出して学ばせれば、また写本が増える。
この学術振興策は、襄陽の地の利に王城の風を加えるばかりではなく、我が龍が我が為に焼いた新野の城への償いでもあった。
彼は、時間をみつけては、学問所を視察することを好んだ。
新年も半月ばかり過ぎて、彼は、ゆかしい我が龍とともに、おしのびの視察から府への帰途にあった。
いずこでも、挨拶の礼をとろうとする講師に対して、長い腕を挙げてそれを無言で押しとどめ、並んで座った幼い背が、声を揃えて、詩経や論語をゆっくりと明朗に棒読みしている様子を、彼は双眸を細めて眩しげに見守って回った。
「ちと、早く済んだような気がするな」
大街に出てから大凶馬に機嫌よく騎して、彼は半馬身後ろに付き従う龍を顧みた。
龍は、大人しい気性の栗毛の駒を寄せて
「もう一箇所、お運びあそばしますか」
この様な場合も想定していたらしき言の葉で応じた。
「それでは遅うなろう」
「はい。おそらく一刻ばかり」
この龍は案外に寡黙である。重大な岐路でない限り、彼が意見を求めないうちは、指図がましいことを一言も言わない。
「お前が道順をよう考えてくれたお陰で捗ったのだ。欲張るまい」
彼は、商舗の外壁の向こうに、高く枝を伸ばした満開の蝋梅を見つけ、それを背にしてなお白く整うた貌に見蕩れてそう言ったのだが、我が龍は、彼に小功を労われたことが嬉しいのか、馬上ながら拱手して礼を執ると、手綱を取り直し、再び半馬身下がって、徒歩の者どもへ、府へ帰還する下知を伝えようとした。
「待て」
大凶馬の手綱を引きながら、彼は我が龍に問いかけた。
「はい」
「刻限どおりというのも、儂の大事な勤めと考えるが、どうか」
「左様でございます」
「どうじゃ、お前が作ってくれた一刻を寄り道に使うて、刻限どおりに帰るというのは」
「使いをお出しになれば、お早くお帰りでもお気遣いには及びませぬ」
「これ、孔明」
「はい」
「そなたは、時々、鈍い」
「え」
「一刻、儂に付き合えと言うておるのだぞ」
「あ……。ですが」
彼はそこでするりと馬を降りたため、龍も慌てて従って下馬したので、彼を制することに遅れをとった。
「皆、本日は朝からご苦労であった。軍師と皆の働きで早う済んだによって、的盧と軍師の馬を厩へ戻したら、今日は下がって休むがよい。儂らは『刻限どおりに』帰ると伝えい。城内ゆえ、儂らの心配も無用じゃ」
不意の思いつきに驚いた我が龍が数え切れないほどの用心を思いめぐらして言いよどんだ隙に、彼は素早く命を發し、供の者に愛馬の手綱を渡すと、
「さあ、ゆこうか」
少し冷たくなった白い手を執って、先にたって歩き始めた。
「襄陽は、まこと、よい城だ」
「左様でございます」
黄昏前の市場は売り声も賑わしく、水運と陸路の利便に恵まれた襄陽という城市が必然的に持つに至った力に溢れている。
「確かな、繁盛している肉屋の横丁に、良い茶楼があると聴いたのだ」
「ようご存知で」
「扁額はな、『無孔笛』。そのよい眼で探してくれぬか」
「……らしからぬ、面白き名でございますね」
「三弟の嫁の、お墨付きだからのう、気になっておった」
楼といえば、二階建て以上であり、その扁額はすぐに見つかったので、彼は、漢隷体の大きな文字を見上げながら、
「そなた、持ち合わせはあるか」
と、我が龍に戯れた。
「我が君」
龍は淡く笑んで応じる。
「ありませんでしたら、如何なさるおつもりだったのですか」
「そうだな……。今日はこのようななりであるし、質にできるものもない。儂を人質に、ご苦労だがやはりそなたに細かい銀子を持ってきてもらうしかないであろうな」
彼は、戴冠もせずに簪一本で結った頭をめぐらせ、長袍とはいえ、質素な衣の袖を控えめに広げて言うた。
「主君を質にする臣などおりませぬ」
「いかんか。臣を質にしとうない主が居ては」
「小者も皆、お返しとは」
「お前と二人して、ぶらぶらとしたかったのだ。やむを得まい」
どこの国に、我が軍師と二人で街歩きがしたい主君がおるのであろうか。そのおかしな君主は、襄陽の城の一番人気の茶楼の門口に、いま確かに立っている。
「冗談じゃ。儂とて急の用に備えて、常にいくばくかは持っておる。案ずるな」
と、右手で叩いた懐中には恐らく一両銀と、銀の細かい粒や銅銭が収まっているのであろう。叩き上げで世情に通じた彼ならではである。
龍が案内を請おうとするのに、彼はそれを制して先に立ち
「二階は空いておるかな」
茶楼の店先の若造に問いかけた。
「いらっしゃいませ旦那様。ちょうど空いてございます。お二人様ですか? すぐに案内させます。おーい!」
愛想良く応じて、奥にも声をかけた若造に、
「雅座がよいのだが」
彼は、まるで常連の客のように話しかける。
「旦那様はご運がおよろしい。お約束のお客は、夜まで丁度ございませんのです」
二階へ案内しながら、若造は雅座がととのっていることを遠目に見て、
「どうぞ、旦那様、若旦那様」
奥の、大きな円い二面の窓を配した卓へと誘った。
「お茶は花茶が自慢でございますが、酒もございます」
彼は初めてではないようにみなして、若造は、何となく、龍に向かって紹介するように言うた。
「茶をもらおう。それから、菓子を適当に」
「かしこまりました」
若造は、きびきびと接客して、階下へ降りてゆく。
彼らには聞こえなかったのだが、配膳のついでに、
「あのさ、雅座に、お上品な親子が来てるからさ、ちょっと挨拶してみてな、よさげなら、あんまり下世話じゃないやつを、二、三曲頼むよ」
と、また奥へひと声かけて、若造は給仕に回っていった。
「……なにやら、楽しいのう、『若旦那様』」
彼は、咽喉奥で笑いながら、上機嫌である。
「あのな、三弟が言うことにはな。
『うちのかみさんがでスよ、
”もしも軍師様に怒られて一杯奢って詫びを入れる
ようなことがあったら、絶対、あそこの二階の雅座で
お茶を一杯差し上げろ、きっと許してくださる、
だから覚えとけ”
って言うんでスよ。何ていうんスか、
眺めがどうだとか、調度が何だとか、
そうだ、楽の音がナンダトカ、退屈なことぬかしてましたっス。
せいぜい、お怒りを蒙らないように耳の穴かっぽじって、
よくよくお下知を聴くことにしまス。
酒楼なら、一度で舌が覚えるってのにでスよ』
……と、な。言うておったのじゃよ。『若旦那様』」
『若旦那様』を気に入ったらしき彼が、笑い興じて龍にそう言うて聴かせていると、
「旦那様、若旦那様、お待たせいたしました。どうぞごゆっくり」
茶器と菓子の皿が運ばれて来るのであった。
「いただこうか『若旦那様』」
「はい……『旦那様』」
思いがけず、我が龍も興じたので、彼は頬を緩めてから蓋碗の蓋をとりあげ、
「熱いから、気をつけるのだぞ」
と、こればかりは普段の調子で言うた。