寶笛直千金 (一)  (ほうてきあたいせんきん) 

2012/06/07

3世紀中編 うをとみづ3世紀SS 寶笛直千金

 今上の叔父である彼は、襄陽で迎える初めての正月に、一支の横笛を弄っていた。総黒漆塗りに細かい螺鈿が施された、うるわしい逸品である。

 笛の贈り主の姓は鍾。かの水鏡老師とは音曲の道の朋輩であり、その名を知る者は皆、鍾大爺と呼んでいる。何代もこの地に住まう名士で、丁寧な書簡をこの笛につけて正月の挨拶をよこした。

 本人は老齢のため、彼に会いには来なかったが、彼は、誼を求めるしるしであろう箱の中身が金銀ではなかったところに、その者の好意とゆかしさを感じ、これを納めた。

 我が城を持ち、ほのぼのとした新年が七日ばかり過ぎて、彼はその一支を思い出し、木箱を開けて歌口に唇を寄せて試みてみたのだが、笛は何が気に入らぬのか、うんとも言わない。

 眉間に浅く皺を寄せていると、
「軍師がお越しです」
という取次ぎの声とともに、冬の日の薄暗い主座に一条の光が差し込んだ如くに、彼の掌中の珠玉である人の形をした龍が廊にあらわれた。

「遅うなりました。我が君にはご機嫌うるわしく」
「おう。近う」
 朝餉を共に摂ってから、半日も離れていなかったというに、二、三日も会わなかったような口上で拱手して礼を尽くそうとする折り目正しい我が龍に、彼は笑みを投げかけるとともに親しく手招きをした。

「あのな。鳴らんのだ。そちなら吹けよう」
 彼は、笛を丁寧に両手で捧げるようにして、我が龍に差し出した。
「笛はたしなみ程度ゆえ、お聞き苦しゅうございます」
「儂ぁ、そのたしなみすらない。まあ、鳴らしてみい」
「されば、拝借いたします」
「うむ……もそっと、火の傍へ寄れ」
 
 龍は横笛を受け取ると、拵えのうるわしさよりも、彼の手指で暫く温められたぬくもりをみとめて、まだ見慣れぬこの一支にすらも慕わしさが募りかけたが、
「我が君、このままでは鳴りにくうございます」
 形のよい唇は、その感情とは裏腹に、冷静な所見を述べた。

「なんじゃ、なりばかり美しゅうて、なまくらか」
 彼は、仮にこれが鳴らずとも、贈り主を咎めるつもりはない。
 鳴らぬのを知らずに贈ってきたのでなければ、それなりに意図を含んでいると見るべきである。
 鳴らぬなら鳴らぬなりに、やはり龍にその意味を問わねばならない。

「いいえ、ここに、葦の……、薄い皮のようなものを貼りませんと」
「そうなのか」
「はい」
「貼ってくれ」

 童のように性急に命ずる彼に、この龍は可愛らしさのようなものを感じて
淡い微笑を刷くと
「しばらくお借りいたしまして、書童に、よいものを貼らせましょう」
 ここで直ちにとはゆかぬことを、婉曲に述べた。

「よしなに頼む。他日に贈り主に会うて、音も聴きもせずに礼は虚しいでな」
「はい」
 彼は、そこでようやく、笛を吹く我が龍を見てみたかった願望に気づいて
微かに慌て、照れたような表情を浮かべた。

 「よしよし、笛はもうよい。茶飲み話に付き合え。お前は、人任せにするということを、もそっと覚えねばならんぞ」
 そう言い終わらぬうちに、側仕えの者は心得ていて、二客の茶と素朴な甜い菓子を運んでくるのであった。

 後日、滅多に戻らない私室で、やはり人任せにできない龍は、書童に手伝わせて笛膜を選んでは貼り替えていた。

 暇を見つけて音色の具合を確かめていた龍は、
(どうも、この笛の力十分ではない)
 と、釈然としないで居たのだ。

 かたや、龍の書童は、常に不在がちなこの主を久方ぶりに前にして、書斎に飾っておいた水仙の香りを、先ほど言葉やさしく褒められて労われ、うきうきとして、笛膜を貼るという些細なことすら嬉しいのであった。

(僕の先生は、お国で一番お知恵がおありで、一番お優しくて、きっと一番、見目おうるわしい)
 と、無心な白い横顔を眺めては、何やら誇らしい。

 笛を仔細に観察すると、裏側に「左」を意味する小篆の二文字が彫られていることに、龍は気づいた。

 思いついて、横笛を左に構え、白い指ですべての孔を塞いで、筒音をもう一度吹いてみる。

 すると、箭が放たれたように、柔らかであるのに磨き抜かれた音色が辺りを払ったので、龍は畏れるように、直ちに息を吹き込むことを止めた。

「先生、なんていい音なんでしょう。泰山の上まで響きそうです。笛膜のせいでしょうか。これは、白眉先生に分けていただいたものなのです」
 それなりに音曲も解する利発な書童は、頬を上気させてうっとりと言うた。

 若くして白き眉を持つ馬季常は、実は笛の上手である。

 過日の彼の求めに応じ、龍は書童に命じて、城内のめぼしい店舗へ使いに遣り、何種類かの葦の笛膜を揃えさせてはいたが、笛の位(くらい)を考え合わせて、わざわざ馬季常からも入手していた。

 あまり知られていないことだが、馬季常は、執務の合間の息抜きに、ときどき笛を吹いている。厩舎のはずれの、一本梅の樹の下である。

 龍ははじめ、それを馬季常の弟の幼常から聴き知ったのだが、この記憶がこのように役立つ日が来ようとは、その時は思いもしなかった。


 風の少ない晴天の日の午後、まだ蕾を固く閉ざす梅の樹の下で、
馬季常は軽やかに笛を吹いていた。
 姿勢正しく、背に冬の陽光を負い、そのからだごと、笛に溶け込んだように、
晴れ晴れとした音色を醸していた。
 奏することに、というよりも、笛との対話に満足して馬季常がしばし休むと、不意に拍手が耳に届いたので、白い眉の下の両目をめぐらせて振り返った。
「季常、お見事なる腕前でした」
「や、これは軍師。お恥ずかしい」

 馬季常は、この白い眉と、武将と言うても通る骨格と、落ち着いた声音から、実際よりも年嵩の印象を与えることが多い。
 自然、「馬兄」という敬いを受けることが多いのだが、この龍よりも六歳年下である。
 馬季常は相応に字を呼び捨てにされることを好むので、龍はその意に従っているものの、もし傍目があれば、若造が目上の者を軽くあしらっているように見えなくもない。

「もしも何かご褒美を賜る機会があったなら、軍師の琴と合奏するひとときを望みたいものですが……。主公のものでございますからな。軍師の琴の音は。
いや『もの』とは失敬ですが」
 そのような軽い遣り取りを経て、
「笛膜ですか? 何箱でも差し上げます。お忙しい御身ですから、あの賢い童(わっぱ)をおつかわしください。いや、割合にですな、廉いのを上手く貼ったほうが、アジが出るというものなんでありますよ」

 馬季常は、愛用の笛膜を、気前よく箱ごと寄越してきたのだ。

 書童が示した、件の笛膜が収まった小さな細長い木箱を見遣って、
「いや、笛を作った匠の技もあろう……。わざわざ、左利きにより適うように作ったのではないか」

 そう応じながらも、龍にはなぜか、この笛がいま、泣き叫んだように思えてならなかった。