寶笛直千金 (六) ほうてきあたいせんきん 

2012/02/01

3世紀中編 うをとみづ3世紀SS 寶笛直千金

 その夜、彼の臥室の灯火は、なかなか消えなかった。

 普段ならば、ほんのひととき、低い聲で昔語りを聴かせるだけで、すやすやと寝入ってしまうはずの我が龍が、物憂く、伏し目がちに横たわっているからである。

 霙まじりの強い風が夜の窓の桟を騒がせる、その物音が束の間やむのを待ってから
「いかがした。眠れんのか」
 彼は、傍らへ囁いた。
「……我が君こそ、御寝にならぬのでございますか」
「心にかかることがあるのならば、言うてみい。禄高のこと以外なら、何とかしようぞ」
 彼は、冗談を交えて水を向け、いつになく重い口を開かせようとした。

「孔明」
 おっとりと、慈父のような口調で促すと、昼間、言い出せなかったらしい、あの笛とかの笛についての推測と、昨夜の楼の上での所感を、龍はようやく語りはじめた。

「……思えば、それとのう、気がついておりましたのに、申し上げることを躊躇っていたわたくしが、きっと悪うございました」
 龍は、まだ突風のことを思い悩んでいる。
 理の上では、それとこれは別儀だと弁えているくせに、情の上で忍びないという風情である。
 この生真面目な龍に業を煮やして、あの笛が、その存在を宣言するために、
このように非常な手段に訴えたとでも考えているかのようだ。

「天は御心ひろく、滅多にお怒りにはならんぞ。お前は、ときおり、天を畏れすぎる。よいか、お前が昨夜、笛を吹こうと吹くまいと、今朝の風は吹いたのだ。
仮にそなたの笛ひとつで天つ風まで動くのであれば、儂は一兵も動かさず、許昌の丞相府へ向かって、毎日でも吹かせるわい」

(会えるものは、必ず会えように)
 恐ろしく気の長い彼は、我が龍の取り越し苦労ともいえる性分をいとおしくも、心配にも感じながら、この場合は慰めよりも、具体的に何をするかを論ずることにした。

「例えばじゃが、あの子の笛を高値で買い上げて左右を揃えるか」
「それもこの際、ひとつの方法ではございます」
 馬季常も心得ていたとおり、慈悲を示すのは君主の役割である。この「例えば」を臣が行うことはできない。
 臣が慈善の如きを行うのは国の乱れの元である以上、千年に一度の智慧を持つ龍であっても、私財を投じて右と思しき笛を贖うのは気が引けた。
 いま彼の心を動かさねば、笛の行く末を変えることは出来ないのだ。

 とはいえ、彼の仁徳は遍きゆえに、特定の者どもに恣意的な理由で偏った恩情をかけて、かえって不仁に陥る結果を恐れ、それを本能的に避けるようとすることも、よく弁えている。

 もしも彼の所蔵の笛とあの笛が一対という特別なものであるならば、贖わずともただ一支の笛を召し上げ、引き換えになにがしかの扶助を与えれば、からくも、道理は立とうという話といえぬこともない。

「儂は、笛を得るには及ばずとも、ただ七人を賄うほどは、何とかなろうがな、
そう容易くはあるまい。
……そちは、笛と人とを助けるうえに、襄陽のために、あの店に集うていた文の如きと繁華をも取り戻したいのであろう。いよいよ、それは難しかろう……」
 彼は、金で買えぬ郁郁たる文をこそ重視している。

「されば、鐘大爺をお召しください」
 既に心づもりをしていたのであろうか、我が龍は、いつになく急き込んで、
地元の名士で富豪でもある翁の名を挙げた。
「鐘どのをか」
「かならず、右白虎の笛をお探しであったはず」

 たしかに、正月に青龍の笛を贈って寄越した翁が、笛に疎かろうはずがない。彼は鐘大爺がかの水鏡老師と音曲の朋であることは知らなかったが、
龍は聞き知っていたのかもしれなかった。

「解せんな。ではなにゆえ、笛を手放した」
「そのご真意は、伺うてみねばわかりませぬが、この笛にまつわる出来事であれば、きっと坐視はできぬはず」
「……む、ならば、日を選んで鐘どのをお招きして、笛の子も召すがよい。儂が訪ねてもよい。よきに計らえ」

 彼が龍の進言を容れぬことは稀である。この時も、彼のほうが折れたように見えないこともなかった。
(そなたは、その笛が出会えぬでいることに、耐えられんのだな)

 彼は、笛の泣き声を聞いてしまったのであろう我が龍を不憫に思う。

 親子に間違えられて、茶楼に遊んだあの日、龍は既に笛の音を知っていたはずであれば、やはりあの時、逆さ睫が障って目を潤ませたのではなく、笛のために涙していたのであろうと、彼は得心したが、このまま知らないふりを装うことにした。

 臥室の向こうの間の、廊に面した扉が風を受け、受け止めかねた風の勢いを、細く甲高い耳障りな音をともなって室内にもたらした。
「隙間風が、強いのう」
「今宵は、一晩吹くと思われます」
「この風もあって、眠れんのではないか」

 彼は、夜具の中でごそごそと蠢くと、枕頭の灯火をようやく吹き消した。
消すために小者を置いておくような贅沢は好まない。
 闇に目が慣れぬ寝台のうえで、白い瞼が閉じられていないであろうことを
察した彼は、横臥しなおしながら
「孔明、近う」
 と、傍らへ囁いた。
 雨足の強い夜、風が笛のように鳴る強風の夜、あたたかく大きな掌で、耳を覆われることが多い龍は、躊躇うような気配を見せた。

 彼は構わずに、秀麗な額に頭を近づけると
「あのな、『書経』でな、儂が覚えていることを聞いてみい。退屈で眠くなろう」
 そう言うてしまってから、覚え違いがあるかもしれぬことを思い合わせて、照れ隠しのように小さく咳払いをし、

「お前は、儂の耳を塞いでみい……といいたいが、ちょっと、お前の手には余ろうな」
 彼は故意につまらぬ冗談を囁いて、咽喉の奥で笑いに紛らわせた。
 
 彼は『洪範』の途中から、滔滔と暗誦をはじめた。十七、八の頃に丸覚えしたもので、意味はともかく、口が勝手に唱えるまでになっているくだりである。
 思いがけず、我が王の口から、我が王の聲で、いにしえより伝わる王道を説く文言をすぐ傍で耳にし、龍は隙間風のことも笛のことも、たちどころに散じて、まばゆき王徳の中に入ってしまったような心地でいた。

 記憶が怪しくなってくる八政のあたりで、傍らに微かな寝息を感じ、彼は暗がりでふと笑みを洩らして、まるで余計な考えを我が龍の頭の中から悉く吸い上げてしまうように五指の先で白い額を微かに撫でながら、その眠りが深まるようにと誘った。