寶笛直千金 (最終章) ほうてきあたいせんきん

2012/01/01

3世紀中編 うをとみづ3世紀SS 寶笛直千金

 三日ののちは、曇りがちで時々に晴れ間がのぞくという天候であった。

 襄陽の城の広間では、巨きな耳を左右に、温雅な表情をたたえて、この城の主たる彼が、客人と対面していた。

 客の姓は鐘。髪も髯も白く、鞠にして転がしたいほどの福福しい体型をしている。膝が悪いらしく、彼が客舎へ遣わした迎えの車から緩慢に降りると、杖をついて狭い歩幅を重ねて殿上にやってきた。
 彼のすぐ傍らに侍る龍に手抜かりがあろうはずもなく、鐘の座には敬老のしるしに脇息を用意してあったので、座談の間、鐘老人には疲労の色はなく、彼は安堵していた。

「正月には、拵えはもちろんのこと、音色も妙なる見事な笛を頂戴いたしまし
て、有難うございました。お礼が三月も遅れるとは、なにとぞ、ご無礼をお許
しください」
 彼が、日ごろとかわらぬ腰の低さを見せると
「何の。老体をお労わりあらんと、水ぬるむ頃を期してくださったと、この老いぼれ、それしきのことが分からぬほど耄碌はしておりませぬ。……近頃の若い者は拙速のみを尊び、嘆かわしゅうございますが、さすがは劉皇叔、つくづく感じ入るばかりでございます」
 鐘は、神妙な面持ちで拱手した。

「いにしえより交通の要衝にして文郁郁たるこの荊州に、今こうして生かされていることを、儂は天に謝するばかりで、恥ずかしながら、いまだに何の持ち合わせもございませぬが……。本日は、あの一支の笛の答礼に、ぜひお耳に入れたきことがございます。お教えを請いたきこともございますゆえ、ごゆるりとお過ごしください」
 おだやかに笑みをたたえ、彼は、のんびりとした調子で話した。

「はて。教えなど、畏れ多きこと。皇叔のお隣においでの先生が、ありあまるほどお持ちでしょう」
「それは無論でございます」
 彼は、誇らしげに背を正して寬き胸を張った。

 このように客と会話をかわしておると、客どもは必ず、彼の傍らに控えている、綸巾の冠を戴いて黒き衣をまとった白皙に目を奪われてしまうというのに、鐘老人は一顧だにしない。
 彼は多少は訝りながらも、さほど気に止めず
「皆をこれへ」
 と、傍らへ囁いた。

 側仕えの者どもが声も高らかに次々と取り次ぎ
「茶楼『無孔笛』の三名にお召しである。広間へ参上せよ」
 遠くで主命を伝える声が響いた。

 廊の向こうから、四つの人影が近づいてくる。案内する馬幼常を筆頭に、茶楼の老爺と歌の少年と、そして笛吹きの少女が粛粛と現れた。

「ご主君、一存にて兄なる者も召し連れました。お許し願わしく存じます」
 もとから広間に居流れていた馬季常がとりなすように発言すると
「おお、お兄上もお越しか。苦しゅうない。これは儂の迂闊であった。お兄上も
ご一緒にと、気づくべきであったな。……楽長どのも、わざわざお呼びだてして
すまなんだ」

 彼はかろやかに立ち上がると、跪く三人に近寄り、少女の前に屈み込んで、
ぎこちなく拝礼する小さな手をとった。
 隣の少年が反射的にハッと顔を上げた時には、彼は少女の手に飴を握らせ
ていた。
「星の飴の小父さんだよ。思い出してくれたかな。また会えて嬉しいぞ」

 少女は手の中に一粒の飴玉を見、あっ、と驚いて、忘れもしない彼の巨きな
耳と、目尻の優しげな笑い皺を仰いで
(うさ耳の、旦那さまだ!)
 つぶらな瞳を見ひらいた。
 少年も老爺も低頭を忘れて、飴と彼とを思わず見比べてしまっている。

「あのな、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんの笛と、小父さんの笛が、どうも昔から友達らしいでな、ぜひもう一度、笛を聞かせてもらいたいと思って、来てもらったのだよ」
 彼が、馬季常へ向かって長い腕を挙げて合図をすると同時に、少女は、
斜め前方に控えて立っている馬季常の、見慣れた白眉をおずおずと仰ぎ、
かすかに首をかしげてみせた。
 どう振舞うべきか、分からないのだ。

 馬季常は、拵えがほぼ同じながら、少女の笛よりも長めの青龍の笛を横たえ、にこりと笑ってみせて、
「お嬢の上手な、『関雎』はどうかな。わたしが伴奏しよう」
 まるで、茶楼の二階に居るような、いつもの調子で誘った。

 少女は飴を兄に預けると、笛をとりあげて、意を決してスクと立ち上がったので、彼は足音も微かに首座へと戻る。馬季常は、低めの音域で前奏を吹き始め
(物怖じするでないぞ)
と念じた。


  関関と聲たかく啼くみさごどり

  河の中洲にあそびつつ

  たおやかなよきむすめごは

  君子の伴侶となりぬべし……


 白虎の笛は、ようやく青龍の笛とまみえて、我が世の春が来たように歌った。
 一対の笛は、まるで鳥が戯れ合うごとき音色を醸して、曲がいつまでも終わ
らないことを祈るかのようだった。

 この曲が余韻を残して終わると、音色に誘われて飛来したのか、甍の上で
幾羽かの鳥が、曲の続きをねだるようにひとしきり囀っていた。
 鐘老人は眉間に一本の縦皺を寄せて、厳しい表情をしていたが、彼は、囀り
すらも楽曲であるかのように聴き入って、しばし、眸を開こうとしなかった。

「鐘どの、お探しの音色でございましたかな」
 彼は眸をあけて、莞爾として笑んだ。
「……これは、参りましたな」
 難しい顔をほどき、鐘老人は眉を下げて、明瞭な声を發した。

「いや、こうもあっさりと、我が七十年の悲願をお聴かせくださるとは、夢にも」
 鐘老人は、泣いているのか笑っているのか曖昧な表情を浮かべた。もっと回りくどく、恩着せがましく、勿体をつけて披露されるのではないかと思っていたのだった。

 そればかりか、彼は鐘に、青龍の笛を返そうとも言わず、白虎の笛をどうせよと迫るわけでもない。
 今日のことが臥龍先生の入れ知恵であろうとなかろうと、鐘はどちらでもよくなって
しまった。

「七十年もお探しであったか」
「左様、この老体が、まだ紅顔の頃からです。……見つけてくださったのは、
臥龍先生ですかな」
「その通りです」
 彼が首肯すると、鐘老人は今日はじめて、彼の龍の白皙を眩しげに仰いだ。

 鐘は、この短い応答で、わざと笛膜を剥がして贈った青龍の笛に、楽の友の
水鏡の愛弟子が、たしかに笛膜を貼り直し、その音色を検めて笛の来歴を察
したのであろうことを知った。

「『無孔笛』の評判と災難は伝え聞いております。……この頑固爺が、しらばっ
くれて音色だけ耳に残して帰ってしもうたら、どうなさるご所存でございました
か」
 彼はそう聞くなり、呵呵と笑い飛ばして
「どうもいたしませぬ。ただ、青龍の笛の嘆きを長年聴き続けたおかたが、
看過なさるとは思えませなんだ。……我が軍師とて、このあいだ思い詰めて
落涙しておったほどです。おお、これは口が滑った。どうかご内聞に」
 座が湿っぽくならぬよう、わざと茶化す口調で辞を連ねた。

「試みたつもりが、逆に、わしの器量を試す結果になりもうした。人が人を試
みようるなど、愚かしき限りでありました。お恥ずかしや」
 鐘老人は、後悔の溜息と共に首を左右に振り、彼が問い質しもしないのに、語り始めた。

「……十年ほど前になりますか、荊州の賢者を訪ね歩いて、白虎の笛の消息を探していた時のことです」
 懐かしげに視線を遠くする鐘の双眸には、キラリと光るものがあった。

「ひなびた茶館で、若い書生どもの議論が、耳に入りましてな。わしはその時、
書生どもに背を向けておって、埒もない机上の空論や、学問のための学問を、
鼻で嘲っておったのですが、一人だけ、まるで古の賢者が書いたものを読み
上げているかのように、明瞭で整然とした論を吐く者がおった」

 じっと聞き入っている龍の白皙に応じるように
「あとで徳操に聞いたらば、もちろん、若き日の先生じゃった」
 鐘老人は深く頷いてから、語り続けた。

「先生の説く言葉は非の打ち所が無く、ひとつの綻びもなく、清くはあったが、
しかし、まるで氷のようじゃった。先生のような冷血漢を召し抱えた劉皇叔を、
わしは危ぶんだ。わしは、白虎の笛を空しく持っておるのが年々辛うて……
いっそ手放してしまうついでに、この笛を献上することとで皇叔の高徳と先生の
才智を試そうと図ったつもりでしたが、今は……悔いるばかりです」

 御前に居流れている馬幼常は、冷血という表現にひくりと眉を動かしたが、
平然を装って、黒光りする床へ鋭い視線を注ぎながら成り行きに耳を傾けた。

「以前の先生なら、白虎の笛を餌に、わしが金を出すことを選ばざるを得ぬ
情況にわしを追い込むことくらい、朝飯前だったはず。いや、眠っていてすら
容易かろう。しかし、どうやら、氷は今や溶けて方円に従うておるということで
ありますかな。……そのお若さで、笛の涙すらお悟りとは」

 鐘老人の感嘆に、顔のこわばりを解いた幼常の隣で、馬季常もまた、今日の
演奏こそが、かわいい笛の友も朋輩をも真に救うことに繋がらんとする様子を
目のあたりにして、彼に備わる王徳に跪きたいほどの心地に襲われた。

「たとえば彼らを我が家で楽士として廉く雇うのは容易いが、独り占めしては、
彼らも襄陽の者どもも気に入りますまい。……よろしい」
 丸い膝を鐘はひとつ叩いて提案した。
「大街三条には及びませぬが、大街八条の古い屋敷を什器ごと、そっくり
お貸ししましょう。両隣の店も越してくるがよろしい。特に、隣の肉屋は。屋台
で串焼きも売っておったそうな。『無孔笛』は、両隣の店の商品は持ち込み可
という緩さも、貧乏な若い連中に人気じゃった。……店賃はな、今、三代先の
ぶんまで貰ってしまいましたからな。いかがでしょうかな」

 もう滅多に外出しないはずの八十翁は、襄陽の人気店の人気の理由の一つに、意外にも詳しかった。
「楽長どの、いかがかな」
 彼は、鐘老人の申し出を媒するように、老爺に眸を向けた。
「いま、店主は重傷をやしのうており、我ら一存での返答はかないませぬが、
身に余るおはからい……」
 髪の薄い楽長は枯れた声を震わせて言葉を詰まらせ、叩頭した。それにあわせて、少年と笛の少女も慌てて平伏する。
「この眼の黒いうちに、白虎・青龍の調べを聴くことになろうとは。もう明日死す
とも可なり、ですわい。殿様、どうか手をあげるよう、お口添えくだされ」

 彼が言葉やさしく礼を免じてとりなしても、三人はなかなか立とうとしないので、馬季常と幼常が扶けて、やっと場が落ち着いた。

「いま一曲、お聞かせいただけましょうや。實を申せば、先ほどは年甲斐ものう、痩せ我慢をして、絆されまいと、膝を抓って聞いておりましたゆえ」

 鐘老人は、照れ隠しにほがらかに笑った。


 楽士老幼を下がらせ、鐘を客舎に見送った夕暮れに、君臣ふたりは楼台で
話し込んでいた。

「そなたは、あの笛が儂のもとに揃うことを望んでおった」
「はい」
「だが、儂には白虎の笛が、『今少し待て』と言っているように聞こえた。何百年
待ったか知らぬが、もう五十年ばかりは待てようと、説き伏せておったぞ」
五十年とは、あの少女が年老いて、また笛は誰かの手に譲られる頃合とも言えるのかもしれない。

「今はこれでよいではないか。孔明。儂らは、あの笛が、また再び然るべき日に出会うために別れたところを、今、ただ見ていたのだ。……儂も、そなたも、鐘どのも、あの子らも、誰もが世を去っても、物言わず吹き手を選びながら、あの笛は、三たびまみえようとするのであろう。その望みが必ず叶うよう、何やら、祈りたい心地になるではないか」

 あの二支の笛の音のように目に見えずとも確かにある連綿に、この前も続いていたような、そしてこの後も続いてゆくような直感を得て、ふたりの君臣はどちらからともなく、しかと手を携えたのだった。

 
 馬季常の供まわりに先導されて、しずしずと府をあとにする少女は、その列の
一番後ろで立ち止まって少年の袖をひいた。

『あのね、今日まで、笛が友だちを探していること、全然わからなかった。笛の
思うことは、笛に孔があってもなくても、本当は、きっと心の中に届くんだと思う。
笛は声のかわりなだけじゃないって、今日わかった。笛が大好きなだけじゃなくて、笛で何がしたいのか、うさ耳の旦那さまにまた会ってわかった気がする。
旦那さまは、笛の思うことが聞こえるみたいだった。
ただ上手なだけじゃだめ。上手なだけの笛吹きなんて、いっぱいいる。人の心に届くように、もし今、笛の孔が全部塞がっても、大丈夫なぐらいに、今日からがんばる』

 そのような意味を、まるで大声で叫ぶかのように指先に力を篭めて書き付けた。随分と長い言葉になったのは、この心持ちを的確に言い当てる言葉を、少女がまだ持たないからであろう。

 少年はそれを遮りもせず、みなまで書かせてから
「そうだね、わたしも、人の心に響くような、……自分も一緒に強くなれるような歌を歌いたい。わたしがどんな顔をしていようと、これから何十歳になろうと、関係ないぐらいに」
ふたりは、良く似た眉を揃えて頷き合った。

『ふたりで人の心を打てるようになったら、お姐ちゃんは、男の子の服を着なくてもよくなる?』
「そんな日も、来るかもしれない。今はまだ、母さんがなるなといった『歌姫』が怖くて、こうしているけど。……すぐには、無理かも知れないけど」

 生まれつき声を持たない幼い妹を側女に差し出すぐらいなら、身代わりになろうと思い詰めてついてきた少年は、美しい歌妓だった母のおもかげを瞼にえがき、妹の小さな手をしっかり握り、世間の前で初めて姐の顔をして、隊列に遅れた分を取り戻そうと、走り出した。

 その微笑ましい光景に
「おい、わっぱども! 転ぶんじゃねエぞ!」
 府の門へ馬で乗り付ける男が、雷のような大声で追いかけ、手を振った。
 黒い盾のようなものを小脇にしているが、男が大柄なので、ただの板の切れ端に見える。

 あとに続く家来どもは、一頭の虎の屍の足を棒に縛り、逆さまに吊るして前後を担ぎ、おっかなびっくり付き従っていた。

「向こうの峠で虎が出てるって話で、ちょっと鉄拳一発かましに行ってみればだ、なんか、水の軍師サマに関係ある言葉じゃなかったっけかな……ってな、城外で拾ったはいいが、道道思い出すかと思ったケド、何のことはねえ、ダメだ、さっぱり思い出せねえ。俺のバカいまに始まったことじゃねエけどな」

 ぶつぶつと独り言を言いながら、虎髭を弄るこの男に抱えられているのは、漢隷体三文字が書かれた、角が少し罅割れた、大きな扁額であった。



 寶笛直千金(了)  

2012/01/01-2012/06/01