街の木々がLEDの光の花を満開にする12月の夜のことである。
「さあ、そろそろ時間だな」
実は華流スターだと紹介されても頷けるであろうほどの美男子がグランドピアノの蓋を閉めたのを機に、先生も譜面をあつめて揃え、ファイルにおさめにかかった。
「別にぶっつけでもよかったな」
「何を言うのです。ダメです」
「相変わらず慎重派だ」
「周兄は、思い切りがよすぎるのです」
「ナマモノだ。事前にいくら慎重を期しても、本番は蓋をあけてみねばわからない」
コンサート慣れしている周公瑾は、事もなげに言う。
「いいえ。練習以上の力は本番では出ません」
「ハハ。そうだ。それで私は貴兄を凌げなかった」
周公瑾は先生が思い出すことを憚るそのことを故意に持ち出して、もうそれは過去の笑い話だということを示そうとした。
「……あ。お忙しい周兄の約束事を増やしてしまったのは、謝ります」
先生が俯いて譜面を鞄にしまうので、周公瑾は先生が奏でていたピアノに寄りかかり、親しげに笑んだ。
「そういう意味ではない」
周公瑾は短い笑い声につづいてそう言い添えて、先生の微笑を待った。
ふたりは、奏楽堂ホールの地下一階のレッスン室でリハーサルをしていた。
来たる25日の『Christmas concert with Zhou lang 』の舞台で、二台のピアノで合奏するのだ。
もちろん、主催は孫呉海運である。
これが、『周公瑾クリスマスコンサート』だったなら、先生は周公瑾との共演をおそらく断っただろう。
しかしこの催しは『with Zhou lang』と銘打ったのが大事なところで、あくまで周公瑾は客演の扱いなのである。
市内の公立学校の音楽関係の部活とコラボレーションする趣向で、子供たちこそ主役という位置づけで、しかも孫呉海運は収益の全額を青少年福祉のために寄付すると公言している。
そのため「公益財団法人 うでながおじさん」の理事長たる劉公叔にも声がかかり、彼は協賛に名をつらねることを快諾したという経緯もあった。
このことも先生の背中を押した。
周公瑾は、慈善になど興味を示しはしなかった以前の周公瑾ではなかった。
この才能で誰もかもを凌ぎ頂点に立ちたいという執念は消え、その才能で誰かを幸せにしたいという祈りが宿ったがごときである。
「では、25日の昼に、また」
「はい」
1階の事務室に鍵を返却して、周公瑾は携帯でタクシーを呼ぶと、公立高校の音楽室を目指して車上の人となった。
周公瑾を見送ると、先生はホール通用口そばの腰掛に座って迎えを待つ。
エコ暖房なので少し冷え、鞄の中からカシミアの手袋を取り出して両手に嵌めてみた。
グレイともベージュともつかぬ微妙な色合いの、服飾ブランドの量産品ではあるが、甲の部分の刺繍は特注で劉家の紋章があしらってある。
控えめな銀色の糸で、桃の花に流水をあわせた意匠は主張しすぎず、コートの袖口からチラと見える程度で、隠れた奥ゆかしさが先生によく似合う。
とは、この手袋を贈った主の見立てであるが、当の先生本人は似合っているのかどうかを全く注意していない。
「そなたの手は値千金じゃ」
「日ごろから、冷やさぬように気をつけねばならぬぞ」
という彼の言いつけをこうして遵守しながら、彼が乗った車が迎えに来るのをただ待っていてよい自分が、先生はなぜか嬉しかった。
事務室のスタッフ以外は誰も居ない冬の夜にひとりでいるのに、ひとりぼっちではない温かい気持ちに満ち溢れるのを感じて我が手をそっと握った。
ほどなく、車のヘッドライトが通用口の風除室の向こうの自動ドアのガラスを掠めたので、先生は白皙を輝かせて席を立った。
25日の開場前には、奏楽堂ホールの古めかしいロビーに花が溢れた。
公孫花壇はロビーの隅をポインセチアの鉢でぐるりと飾ることに協力し、また意外にも閣下と呼ばれるあの人物は
「祝 公演 大魏グループ 最高顧問 曹孟徳」
と札をたてたスタンド花を一ダースも届けてきた。もちろん、傷一つない深紅のバラを零れんばかりにだ。
自分は多忙でこの公演に来られないことが心底残念だったのは、閣下ひとりだけの秘密である。
この公演で、周公瑾は今までにない顔をみせた。
最初のプログラム、公立中学校の合唱部が歌う
「きよしこの夜」
「ジングルベル」
「もろびとこぞりて」
の伴奏で登場したときは、周公瑾は何の変哲もない黒い背広で黙然とパイプオルガンを弾いていた。
プログラムナンバー二番では、カスタネットやトライアングル、マラカスを手に動物の仮装をした幼稚園児と共に
「ブレーメンのおんがくたい」
と称して、ロバのかぶりものをしてピアニカを片手に再登場した時、誰もが驚いた。
常に二の線で、自分からそのような役を買って出る男ではなかったからだ。
三番で軽音楽部とのセッションではキーボードを担当し、なんと自分の卒業校の学生服で現れた。
休憩をはさんで、3Dプロジェクションをバックにスペシャルゲストのレディ・貂蝉が熱唱する『氷雪奇縁』のヒット曲の伴奏では、あの腹黒い王子の扮装でピアノに向かった。
そのまま白手袋を嵌めて女子高校生のハンドベル演奏にまざり、しかも一番端で、ただ一音を鳴らすために並んでいた。
最終プログラム
「謎の友人と奏でる 二台のピアノのためのボレロ」
では、周公瑾はスパンコールが光る白い燕尾服で現れた。
先生は馬褂をおとなしくアレンジした裾の長い絹の衣裳に身を包んで、ほんのりとした光沢を醸して、少し緩いままのプラチナの指輪を右手の薬指に煌めかせ、周公瑾と共に客席に一礼してピアノに向かう。
以前の周公瑾ならバルトークやラフマニノフを選んだだろうに、今月のはじめに曲目を聞いた時の意外さが忘れられない。
誰にでも馴染み深いこの選曲は大成功で、蓋をあけた二台ピアノで次第に大音量の迫力を披露して、最後の二小節で急下降するドラマチックなコーダの後でふたりが立ち上がると、割れんばかりの拍手であった。
二人が袖に隠れても拍手はやまず、周公瑾は何度も舞台の中央に戻っていった。
ついにはマイクを手に舞台へ向かい
「それではアンコールにお応えして。サプライズをひとつ」
客席に笑顔を送った。
周公瑾はどの曲を準備しているのだろう。
昔は
「俺の曲を聞け」
とばかりに、技巧やパワープレイが必要とされる大曲を好んでいたが、今はきっと違う。
さきほど、豪華なラベルを弾いたばかりなので
(シューベルト……?)
と予想して先生が舞台の見きり幕の傍で、白く光る美男子を見守っていると、周公瑾は先ほど自分が座ったピアノの椅子を先生の椅子の隣に移動してから袖へ引っ込んできた。
一台のピアノでの連弾の準備以外にない。
「龍兄。出番だ」
「えっ。待ってください。何を弾くというのです」
リハーサルの時に「ぶっつけでも」よかったのではないかと口にした周公瑾を思い出し、先生は慌てた。
何事も、終わりよければすべてよし。
アンコールが印象よくまとまらねば、今までのプログラムが台無しではないか。
それに、二台四手のあとに一台四手では、面白みに欠ける。
「サプライズだ。わたしが聞きたいのでね」
意味ありげなことを言いながら周公瑾は操作盤を操作するスタッフの向こうを見て
「ほら。お出ましだ。協賛主が」
わざと真面目な顔で言った。
先生が視線を移すと、ほの昏いバックヤードでも見紛いもせぬ巨きな耳を左右にして、祝辞を述べた際の黒のタキシードのままの装いで、大きな両手を結んで僅かに困った表情を浮かべた彼が立っていた。
「孔明、儂ぁ何も弾けんが、お前がよいなら出るというたのだが」
「貴兄が出ないなら、仕方がない。わたしの十八番で30分ほど聴衆に沈黙していただこ……」
彼の控えめな発言に覆い被せるように周公瑾が自信満満に言うので
(まさか本気でムソルグフスキーを、とでも)
と思いえがくや否や
「出ます」
先生は白皙をあげて毅然と言った。
まさか空気も読まずここで『展覧会の絵』はあり得まいとすぐに気づいたが、周公瑾は譲らないという意味で言ったことは明らかだった。
彼が協賛に名を連ねる以上、このコンサートを無事にはねさせたかった。
それに、うまくおさめれば彼にも花を持たせることができる。
(これ。そなた正気か)
十八番で30分ほど、の意味が分からない彼は驚いたが、この天才とともに手をとってゆくならばどんな舞台であろうと怖くはない。恥もかきなれている上、本番に強い。
「公叔。『きらきら星』は覚えておいでですか」
薔薇色の表紙の教則本が終わった後に、ピアノピースで第一楽章だけ練習した覚えがある。
「う。……む。だがな。その……な。必殺技でならな」
ここだけの話、彼の必殺技とは右人差し指一本弾法である。
「充分でございます。10回繰り返してください」
舞台に出てきたのは周公瑾ではなかったが、先ほど見事にラベルを弾き切った「謎の友人」の姿を認めて、客席はそのまま拍手で迎えた。
彼は腕が長いので、椅子の位置が通常よりも後ろになる。
足も長い方ではないため、椅子の高さも下げねばならない。
その調整の間合いをもたせようと、
「それでは、東方の三博士の伝説にちなみまして、みなさまよくご存じのモーツアルト作曲『きらきら星』をお送りします。演奏は劉公叔と、我が謎の友人です」
周公瑾が気を利かせて舞台の袖でみずからアナウンスしたので、客は改めて拍手を送った。
弾き始める前に、最初のワンフレーズを白鍵の上で指さして彼が確認している姿が聴衆の好意的なざわつきと笑いを招き、結果的に興味を惹いたのは事実だった。
先生は頷き、眸と眸をあわせて聲も出さずにぴったりとユニゾンからはじめる。
そのまま彼に主旋律を弾かせて、先生は原曲の短調の楽章を省略し、三分間ほどの変奏サビメドレーを添えてしまった。
序盤はいかにもたどたどしかったはずなのに、終わってみれば装飾音も華やかに、まさにクリスマスらしい仕上がりだった。
(魔法?)
小さな子供はもちろん、ソロで弾いたことがありそうな西洋人も
「Bravo!」
と叫んで拍手を惜しまぬアンコールにおさまったのだった。
客席にお辞儀をして手を振り返そうとした先生の手は隣の大きな手にとられ、はっと気づくと彼は邸で演奏が終わった時と同じく、先生の滑らかな手の甲に唇を押し当てていた。
そのあと、何事もなかったかのように、福福しい笑顔で客席に手を振って応じている。
先生は先ほど聞き咎めた
「Brava! 」
も忘れてしまった。
耳まで真っ赤になってしまったに違いないと思った絶妙なタイミングで、緞帳がするすると降りてきて彼らを聴衆から隠したが、客席からは喝采に交じって冷やかしの指笛まで聞こえてくる。
もしかしたら彼と周公瑾に謀られたのだろうか。
(この世で最も恐るべき魔法のひとつは。「才能に翼を与えてやる才能」というわけだな)
周公瑾は、ふっと笑みを含んでバックヤードをあとにした。
忘れられないクリスマスになりそうだった。
――ご来場のみなさま。長らくのご鑑賞ありがとうございました。
外は雪もちらついてまいりましたのでお気をつけてお帰り下さい。
なおロビーでは、Frozenの艾莎に扮したレディ・貂蝉との記念撮影会を催します。
12歳未満のお子様優先にご協力をお願いいたしますとともに、来場の記念にぜひお立ち寄りください。
本日はありがとうございました。メリークリスマス。
(了)