君子四藝で4題 書斎

2014/10/30

21c (君子四藝で4題) 劉公叔の物語(21世紀)

 窓の外で白バラが五月雨に俯く午後、彼は書斎で墨を磨っていた。

 円形に近い古風な形状で、縁に流水と鯉の意匠が彫りつけてある、小さくとも立派な端渓硯を用いている。
 先代か、それとももっと前の誰かの癖であろうか、丘の右側の減りが目立つため、彼はバランスを取るかのように、いつも左寄りで墨を磨るのだった。
 穂先に墨を含ませ、丘で穂先をととのえ、半紙の左上から横書きで我が名を書き連ね、そのあとさらに右上から縦に書き連ねる。
 普段は万年筆で署名をしているのだが、来月に日本でちょっとした調印式があり、毛筆でも対応できるように予行をしているのだ。

(儂は、手習いが好きではなかったな)
 社会的立場上、せめてわが姓名だけは臆せずに書けるようにと、署名は亡父にみっちりと仕込まれた。ゆえに、姓名の三字以外の文字については、彼は全く自信がない。
 携帯電話を持たない先生にときどき伝言を残したり花を贈ったりするときに、悪筆とはゆかぬまでも、粗筆といえよう我が手に気おくれしてはいるのである。 

 二枚、三枚としるしていると、雨のしたしる音にノックの音が遠慮がちに和した。
 今日は書斎で署名三昧の日なので、三時の茶をメイドの娘が運んできたのだと思い
「お入り」
 彼は、鯉が如意を吐き出す面白い形をした玉製の筆置きに筆を休めながら応じたが、翡翠が転がるような聲に巨きな耳をうごめかせて振り返った。
「お邪魔いたします」

 まだ三時だというのに雨天で薄暗く、明かりを点じた書斎がにわかに彩度を増す。
「墨のよい香りがいたしましたので、わたくしがお邪魔を」
 扉のむこうに現れた先生の白皙が輝き、長手の盆を持って蓋碗を二客運んできてくれていた。
「おお、これは」
 すぐに立ち上がって、大股に先生に近づく。
「墨が、このような手柄を立てようとはな」

 彼は、老眼鏡をかけていなかった。
 ノックをして応答を聞き、扉をあけつつつある向こうの景色のなかに、彼が眼鏡を外してこちらを見ようとするその仕草を密かに好んでいて期待していた先生は少し残念だったのだが、毛筆で眼鏡が必要なほどには彼の視力は衰えていない。

 窓辺の小さな茶卓に二客の茶を配する先生を、彼は書畫卓へと招く。
「筆は勝手が違うて、なかなか儘ならん」
 とはいうものの、永久保管になろう書面に署名するに足る、肉太な署名が半紙に黒黒と連なっている。
「見てみよ。玄という文字がのう、難しゅうてな。画数が少ない分、ごまかしが効かん」
「いえ。どれも、三字を以って良い具合のバランスでございます」
「そうだろうか」
「はい。ご覧じませ……」
 初めて見る彼の毛筆での署名を、横書きではなく縦書きばかりを追っている自分に先生は気づかない。
 先生は右上から書き連ねて書き慣れてきた風情の縦書きの最後の署名にはっと眸を吸いつけられて、迷ういとまもなくそれを択んだ。
「特に、こちらなど」
 先生は、彼の名を指さしたりなどしない。
 五指を揃えて、最もよく書けた署名の上にそっとかざすだけである。
「書は、全体の緩急が味わいのひとつでございます」
 もしかしたら先生は、彼の粗筆に巧拙ではなく味わいを見いだしてくれているのかもしれず、彼は急に自信が湧きいでてくる。
「よかろう。些末な部分には拘るまい。……少しはよい塩梅であろう。さあおいで」
 と、茶の温度がさがるいとまが偶然できたことを指して先生の猫舌を気遣いながら、茶卓を挟んで並ぶ圏椅へ先生の手をひいて柔らかにいざなった。


 窓辺の茶卓には広口のガラスの蓋物が置いてある。
 やむをえず書斎で茶を喫するときは、彼はこの蓋物に備えているドライフルーツの類をお茶請けにしているのだ。
 もちろん、署名が捗らないときの気分転換に齧ったりもする。

 彼は大きな手で澄んだ音をたてて軽やかに蓋を取り上げ、骨太な指先で胡桃を摘まんだ。老化防止によいのだ。
「お。ほれ」
 胡桃を取ったあとに先生の好む無花果が現れたので彼は当然のように手づから与えた。
「いただきます」
 先生はいつまでも礼儀正しく、こんなときも淡く押しいただくようにしてから唇に含む。
 彼は続いて松の実を咀嚼していたので、敢えて応じずに右手を軽く掲げて無花果を勧めた。

「お珍しい端溪硯でございます」
「そうか。儂にはよう分からん。悪ガキの頃からこれじゃ」
 硯を褒めながらも、小さな逸品を「あるから使っている」だけの様子の彼が、硯よりも得難く見えてそれ以上なんと言おうか、先生は言葉が見つからなくてまた茶碗に口づけた。

 青墨の良い香りに誘われて、廊下でゆきあったメイドの娘に
「わたくしがお茶をお運びします」
 と言って茶をもう一客加え、今日の書斎に押しかけてきてしまったのが、ちょっと大人げなくも思えてきて、何を話したらいいのかわからなくなる。
 
「……包公のお話を思い出しました」
 彼とならば、無言ですら心地よいという境地があることを知り始めている先生なのに、雨の音が饒舌なので何か話したくて、聡明な頭の中の隅々を探して、他愛もないであろうことを探し当てた。
「ふむ、端渓硯とくれば、≪包公還硯≫か。あれもいい話じゃった」

 包公とは宋代の実在の高官・包拯のことで、数々の難事件を見事に裁くテレビドラマ『包青天』は長年のあいだ絶大な人気を誇っている。鉄面無私の包公は、今でも彼のヒーローなのだ。
「包公賦詩というお話です」
「ほう。どんな奇案であったか」

 先生は言葉をかわしながら、他愛ない話とは、いとおしき人の聲を聴きたいがためにするものかもしれない、という考えがよぎるのを覚えた。

「包公が端州を去るにあたり、惜別に詩を作りました。

『淸心は治本爲り直道は是れ身謀なり
 秀木は終ひに棟と成り精鋼鈎を作らず……』

 書房に書き残そうと思っていましたが、詩には情趣と呼べるものも華も全くありません。
 包公は眉を曇らせ詩才のなさに溜息をつくと、公孫先生を呼んで添削してもらおうとしました。
 お召しをうけてやってきた公孫先生は、一読して晴れやかに笑みをたたえると
『天下ひろしといえど、包大人の他に、誰がこれほどの碧血丹心を賦せましょう』
 誇らしげにそう言って、ついに一文字も朱を入れませんでした……」

 彼は、その話に聴き入っているのか、それとも先生の聲に聴き入っているのか分わからぬ風情で、圏椅に深く腰かけて、おおらかに曲がった肘掛けに長い腕を休め、物語る先生をじっと見つめていた。 
「ほほう。……儂も包青天は随分と知っておるつもりだが、初耳じゃ」
「それは道理でございます。……じつは、これは叔父の作り話なのです」
「左様であったか」
 彼は目尻の笑い皺を深めて快活に笑った。
 作り話も何も、公孫先生も架空の人物だ。しかし、詩は本物である。
「だが、なかなかよい話ではないか。後日談として」
 先生の叔父はおそらく包公のファンだったのだろう。黒きかおばせを曇らせている頑固一徹な包公に、白いかおだちで涼しく仕える公孫先生を配して、率直に言えば巧いとはとても評せぬあの詩を引き合いに、さてこそありなんという逸話に仕上がっている。
「わたくしは、何の謎もないこの作り話が忘れられないのです。……今だに」
 と言って、先生は書畫卓のほうへと僅かに視線を漂わせたので、本当は何が言いたかったのかがおのずと知れて、彼の胸はしみじみと盈ちる気がした。

 白いバラが風に苛まれる様子を気の毒に思い、彼は立ち上がるとシェードの昇降紐を操作し、背にしていた細長い開かずの窓を覆った。

 窓は二面あり、先生がかける圏椅の向こう側のシェードもおろしているとき、遠雷が低く唸った。
「雷……か」
 彼がひとりごちると
「今年はまた、ペルー沖の海面水温の上昇が観測されております。今日の気圧配置は不安定でございました」
 先生は趣味の天気予報を普段どおりに淡淡と述べた。

 それを巨きな両の耳に含んで、彼の寛き胸はざわめきを覚える。

 おさない頃から、彼は雷が怖くなかった。
 天がお怒りだとも思えなかった。
 むしろ、天を引き裂いてまで、何かをお遣わしくださるのではないかという高揚感すら感じて、何が天から降りてくるのか見届けようと、稲妻が走ったあとを凝視したものだった。

 邸の窓からは見えにくいので、昔の恩賜公園にあった桑の大樹に登って稲妻の方向を探していたとき
「もし落雷にあったらどうするのですッ」
 と、母にひどく叱られたことも懐かしい。

 さすがにこの歳になって稲妻のゆくえを探すことなどしないが、冬の雪化粧の景色のなかに先生を見いだしたときに折折に感じる既視感と似た感慨を、この日の雷にも感じた。
 宋などよりももっと遠かろう日の何かが頭を掠めるが、雪の日の何かと同じく、彼は思い出せはしない。


 濡れた白無垢のバラの残像が彼の拇指を促し、涙を流しているわけでもいない先生の頬を撫でさせる。

「孔明」
 熱を潜めた低い囁きを聴いただけで、先生には遠雷も雨の音も耳に届かなくなる。

彼のあたたかな指先が醸す、父性のみに由来するわけではない甘さに、なにもかも委ねてしまいたいほどに心は揺れてしまうので、先生は何を招くのかをもう知ってしまいながらも眸を伏せて俯こうとばかりしてしまう。

 書斎という場所柄を思い出して、こんな時、例の心雑音というものはどうなっているのかなどと考えて冷静さを取り戻そうという思い付きはほんの一瞬よぎろうとしただけで、浅い背凭れが不安定を招く前に大きな手で項を支えられ、無意識に縋ろうとした圏椅の肘掛けはいつのまにか巧みに彼の長い腕とすりかわり、酸素すらも彼から与えられているかのように、世界は唇の上のみにえがきだされていた。

 至近距離で鼓膜に名を注ぎ込まれ頸の脈を口髭に撫でられ、これ以上どこに縋ればよいのか白い手はさまよい、両の五指は白髪が目立ち始めた彼の髪の感触を辿っては乱して、瞼のうらは切なさと慕わしさと求められる危うさで潤むばかりである。

 宋よりも遥けきいつか、懐にいだきいだかれる他に何もできなかったのではないか。

 しかしそれでも良かったのではないか。

 どうであれば良いなどという正解のなさよりも、証明は不可能な縁の深さの印象のほうを彼は無意識に重視して、長いとはいえぬかもしれぬこれからをさえ不思議と楽観できるのだった。

 たとえ今ここに石頭の包公が居て、彼らを罪に問おうとしても、彼には堂堂と審問に答える自信さえあるといえた。


 初夏の肌寒い雨の午後に、墨の香りが漂う部屋の窓辺で茶を喫したことがあったような気がしたが、ふたりはそれがいつであったのか忘れた夢を思い出そうとするに似た思いをいだいて、ふたりだけの夢を見ていた。







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