亜細亜のとある地方都市の国際空港の出国ゲートを抜けた先の廊下で、彼は聞き慣れた声に呼び止められた。
「どちらへお出掛けかな。公叔殿下」
「これは、閣下」
振り向けば、大魏グループの閣下が、艶を含んだ濃い茶系の背広で小柄な体を包み、臙脂色のネクタイを結んで機嫌よく笑んでいる。隣には王佐と呼ばれる秘書が寄り添い、その秘書の傍にはアタッシュケースを提げた若者が控えている。いつも隻眼をギラつかせている護衛の男の姿はない。
閣下が慇懃に『殿下』と呼び掛ける場合は、たいてい頼みごとや相談か、あるいは密談を要している。互いに決めた合言葉ではないのに、長い付き合いで双方なんとなく呑み込んでいる。
「今日は、仁王はおらんのか」
仁王とは、彼のふたりの義兄弟のことである。
「ちょっと先にゆかせました。残念でしたな」
詳しくは「先に入国させた」なのであるが、聞かれていないことには答えないし、聞かれても答えるとは限らない。この辺が金も権力もないくせに一目置かれる存在感を示す彼の腹芸のひとつといえ、おのれより強い者と互角に渡り合うための用心または知恵ともいえる。
彼は仁王と分かれて国際線の乗り継ぎのためにこの廊下を歩いていた。廊下の突き当たりを上に上がったラウンジで、いとおしい先生と待ち合わせているのだ。
閣下は彼の仁王のうち次弟がすきなので、彼は故意に次弟を持ち出してからかい、閣下の意がどこにあるのか測ろうとした。
「よいわい。また会う機会はいくつもあろう。この腐れ縁だからな」
案外に次弟に食いついてこなかった様子から、やはり何か真面目な話があるように見える。
「閣下こそ、眼帯君をお連れではない。お珍しい」
「あれは、影武者と一緒だ。遅れて来る」
「左様でしたか」
撒きたい者があったとみえ、彼はそれ以上は聞かない。
「ちょうどよい。おぬし、飛行機は何時だ。ちょっと顔を貸せ」
「そうですな。30分ぐらいでしたら、お伴しましょう」
彼は、腕時計を見る動作をする余裕を交えて即答した。
出発まで先生とゆっくり話したかったので、その時間を確保しようと考え、敢えて離陸時間は告げない答え方で応じた。こういう場合、返事の内容が「Yes」であるならば、相手は深く追及してこないものである。
「充分だ」
閣下は彼をVIPラウンジに招いた。
ガラス張りの向こうでは、ほぼ無音で航空機が離着陸を繰り返し、巨大な液晶画面で何かの放送を消音で映し出しているかのようで、空港のアナウンスや搭乗客の喧騒とは無縁の、一流ホテルのロビーも色を失うほどの調度を揃えた空間である。深い絨毯が足音すらも消し去ってしまう。
いつでもファーストクラスにしか乗らない閣下には当たり前の風景であるが、彼にとっては贅沢きわまりない。彼の入室の分は、王佐が自前の最上級のカードをそつなく示し、同伴者として遇させた。
「……というわけだ。おい。聞いておるのか」
「もちろんです。この耳は伊達ではありませんよ」
「では、どう思うのだ」
閣下は、赤いペルシャ絨毯が敷いてあるお気に入りのチャイニーズスタイルの一角のソファに腰かけて、サービスされたシャンパンに口もつけずに捲し立て、彼の意見を求めた。
大皿に品よくちんまりと並んだクラッカーの上のクリームチーズとキャビアはそのコントラストを空しく呈して、誰かがその口福に頬を緩めるのを黙って待つのみである。
「左様。閣下はまず、一年ぐらい草木でもお育てになってみてはいかがですかな」
「どういう意味だ」
なんのことはない、女の話だったので、彼は内心うんざりと聞いていたのだった。
一向に靡かぬ頑なな女を「おぬしなら如何に御するか」という話だ。
新しい恋を追っているときの閣下は少年のように稚い性急さを露にすることがある。
「お話をうかがえば、徹底無視というわけでもないようではありませぬか」
「そうだろう! やはりそう思うだろう! だから余は」
つい大声になったので閣下はようやくシャンパングラスに口をつけた。
「ひとの心とはわからぬものです。おのが心すらじつは怪しい」
閣下に倣って、彼もシャンパンを一口だけ相伴する。相手と同じ行動をとることが和を醸すひとつの手段であることを彼は知っているが意図的にすることは少ない。処世術として身に付いていて、この時も無意識だった。
「彼女がもし閣下を好いておるなら、その無言が閣下を傷つけることを知っているはずです。言葉を語らぬ草木を育ててみれば、何か語り始めるかもしれませぬぞ」
「なんだそれは。詩的ではあるが、理屈がわからん」
もしかしたら閣下は、誰かに聞いてほしかっただけなのかもしれない。リラックスしたのか組んだ足を解き、クラッカーに手を伸ばして口に含むと、彼の説明を促した。
「案外に草木は語るものです。それにお気づきになったら、彼女が語らぬのか、語れぬのか、それとも案外に語っているのか、お分かりになりましょう」
「……ふん、なるほどな」
閣下は咀嚼しながら彼の言葉を吟味している風情で、視線を遠くに泳がせた。中らずとも遠からずであったのか、幾度か淡く頷くと
「観葉植物でもよいか」
と問うので
「できれば屋外に育つものをお勧めします。風雨を黙って耐えようとしますからな」
彼は本心から勧めた。
閣下の恋の成就を願うという意味ではなく、誰の心の中にも潜んでいるエゴに向き合い気づくことが、ひとの幸せと心の平穏への一歩だからなのだ。ヒトとカネ以外の物言わぬ生き物に心を砕くひとときを持てたならば、閣下にはまた変貌がありうるかもしれない。
思案顔の閣下の傍には清朝の豪奢な壺が据えてあり、そのうえの壁面には二面の額がゆったりと間隔を保って掛かっている。
蒼天如圓蓋
陸地似棋局
昔話に出てくる有名な歌の冒頭であるが、天下の富と権力を掌中にしている閣下にしてみれば、金と力でものにならない数少ないことこそが囲碁のようなもので、つい熱くなるのかもしれなかった。
(四君子4題 利休梅 につづく)
「どちらへお出掛けかな。公叔殿下」
「これは、閣下」
振り向けば、大魏グループの閣下が、艶を含んだ濃い茶系の背広で小柄な体を包み、臙脂色のネクタイを結んで機嫌よく笑んでいる。隣には王佐と呼ばれる秘書が寄り添い、その秘書の傍にはアタッシュケースを提げた若者が控えている。いつも隻眼をギラつかせている護衛の男の姿はない。
閣下が慇懃に『殿下』と呼び掛ける場合は、たいてい頼みごとや相談か、あるいは密談を要している。互いに決めた合言葉ではないのに、長い付き合いで双方なんとなく呑み込んでいる。
「今日は、仁王はおらんのか」
仁王とは、彼のふたりの義兄弟のことである。
「ちょっと先にゆかせました。残念でしたな」
詳しくは「先に入国させた」なのであるが、聞かれていないことには答えないし、聞かれても答えるとは限らない。この辺が金も権力もないくせに一目置かれる存在感を示す彼の腹芸のひとつといえ、おのれより強い者と互角に渡り合うための用心または知恵ともいえる。
彼は仁王と分かれて国際線の乗り継ぎのためにこの廊下を歩いていた。廊下の突き当たりを上に上がったラウンジで、いとおしい先生と待ち合わせているのだ。
閣下は彼の仁王のうち次弟がすきなので、彼は故意に次弟を持ち出してからかい、閣下の意がどこにあるのか測ろうとした。
「よいわい。また会う機会はいくつもあろう。この腐れ縁だからな」
案外に次弟に食いついてこなかった様子から、やはり何か真面目な話があるように見える。
「閣下こそ、眼帯君をお連れではない。お珍しい」
「あれは、影武者と一緒だ。遅れて来る」
「左様でしたか」
撒きたい者があったとみえ、彼はそれ以上は聞かない。
「ちょうどよい。おぬし、飛行機は何時だ。ちょっと顔を貸せ」
「そうですな。30分ぐらいでしたら、お伴しましょう」
彼は、腕時計を見る動作をする余裕を交えて即答した。
出発まで先生とゆっくり話したかったので、その時間を確保しようと考え、敢えて離陸時間は告げない答え方で応じた。こういう場合、返事の内容が「Yes」であるならば、相手は深く追及してこないものである。
「充分だ」
閣下は彼をVIPラウンジに招いた。
ガラス張りの向こうでは、ほぼ無音で航空機が離着陸を繰り返し、巨大な液晶画面で何かの放送を消音で映し出しているかのようで、空港のアナウンスや搭乗客の喧騒とは無縁の、一流ホテルのロビーも色を失うほどの調度を揃えた空間である。深い絨毯が足音すらも消し去ってしまう。
いつでもファーストクラスにしか乗らない閣下には当たり前の風景であるが、彼にとっては贅沢きわまりない。彼の入室の分は、王佐が自前の最上級のカードをそつなく示し、同伴者として遇させた。
「……というわけだ。おい。聞いておるのか」
「もちろんです。この耳は伊達ではありませんよ」
「では、どう思うのだ」
閣下は、赤いペルシャ絨毯が敷いてあるお気に入りのチャイニーズスタイルの一角のソファに腰かけて、サービスされたシャンパンに口もつけずに捲し立て、彼の意見を求めた。
大皿に品よくちんまりと並んだクラッカーの上のクリームチーズとキャビアはそのコントラストを空しく呈して、誰かがその口福に頬を緩めるのを黙って待つのみである。
「左様。閣下はまず、一年ぐらい草木でもお育てになってみてはいかがですかな」
「どういう意味だ」
なんのことはない、女の話だったので、彼は内心うんざりと聞いていたのだった。
一向に靡かぬ頑なな女を「おぬしなら如何に御するか」という話だ。
新しい恋を追っているときの閣下は少年のように稚い性急さを露にすることがある。
「お話をうかがえば、徹底無視というわけでもないようではありませぬか」
「そうだろう! やはりそう思うだろう! だから余は」
つい大声になったので閣下はようやくシャンパングラスに口をつけた。
「ひとの心とはわからぬものです。おのが心すらじつは怪しい」
閣下に倣って、彼もシャンパンを一口だけ相伴する。相手と同じ行動をとることが和を醸すひとつの手段であることを彼は知っているが意図的にすることは少ない。処世術として身に付いていて、この時も無意識だった。
「彼女がもし閣下を好いておるなら、その無言が閣下を傷つけることを知っているはずです。言葉を語らぬ草木を育ててみれば、何か語り始めるかもしれませぬぞ」
「なんだそれは。詩的ではあるが、理屈がわからん」
もしかしたら閣下は、誰かに聞いてほしかっただけなのかもしれない。リラックスしたのか組んだ足を解き、クラッカーに手を伸ばして口に含むと、彼の説明を促した。
「案外に草木は語るものです。それにお気づきになったら、彼女が語らぬのか、語れぬのか、それとも案外に語っているのか、お分かりになりましょう」
「……ふん、なるほどな」
閣下は咀嚼しながら彼の言葉を吟味している風情で、視線を遠くに泳がせた。中らずとも遠からずであったのか、幾度か淡く頷くと
「観葉植物でもよいか」
と問うので
「できれば屋外に育つものをお勧めします。風雨を黙って耐えようとしますからな」
彼は本心から勧めた。
閣下の恋の成就を願うという意味ではなく、誰の心の中にも潜んでいるエゴに向き合い気づくことが、ひとの幸せと心の平穏への一歩だからなのだ。ヒトとカネ以外の物言わぬ生き物に心を砕くひとときを持てたならば、閣下にはまた変貌がありうるかもしれない。
思案顔の閣下の傍には清朝の豪奢な壺が据えてあり、そのうえの壁面には二面の額がゆったりと間隔を保って掛かっている。
蒼天如圓蓋
陸地似棋局
昔話に出てくる有名な歌の冒頭であるが、天下の富と権力を掌中にしている閣下にしてみれば、金と力でものにならない数少ないことこそが囲碁のようなもので、つい熱くなるのかもしれなかった。
(四君子4題 利休梅 につづく)