春うらら、アジアの某都市のカフェ『古井戸』では、常連の面々が送別の宴を張っていた。
どこにでも居るアラサ―の女子会という雰囲気だが、何を隠そう、彼女らは華僑富裕層からの絶大な信頼を誇るメイドサービス会社「錦官城」の社員である。
「まずは、おめでとうの乾杯といこうじゃない」
最も年嵩に見える女子が音頭をとったので、皆はグラスをかかげる。
「優優、就職おめでとう!」
「オメデト」
「おめでとう!!」
「ありがとう、みんな」
「乾杯!!」
「かんぱーい!」
周りの客に遠慮して、小さめの拍手で5秒ほど賑わう。
「この就職難の時代にさあ。しかも中医だよ。すごいよ優優」
「ようやくですよー。もう来年の新卒と一緒だって諦めてました」
「……錦官城やめちゃうの?」
「うん。名残惜しいけど……。しばらく医業に専念したい。てゆーか研修医一年生ですよ」
「優優は器用貧乏だから、パシらされないように気を付けなよ」
「でも、二、三年は、パシリも修行のうちですよ……たぶん」
「ねえねえ、どこの病院?」
「ちょっと辺鄙なとこで、新しいから。みんな知らないかも……」
「えー、教えといてよ。友達がドクターだと何かと心強いんだから」
みな頷く。
最近の女子は所謂「おひとりさま」に備えて、蓄財や健康についての意識が高い
「そう? 七星壇病院っていうところ」
「えっ、知ってますよ!」
メガネっ子がレンズを光らせた。
「ほんと? 何で」
「高齢者向けマンション併設してるとこですよね? 冬に婆様と一緒にラウンジコンサートとお食事試食会っていうのに行きましたよ!」
「情報早っ」
「メガちゃんっていろんなところにレンズ光らせてるよね」
「好きなんです。歳相応じゃないっていわれる情報とか斜めな感じのとか、あと」
「はいはい。レンズ光っちゃうのね」
コアな話題に突入しそうになったのをいち早く察した面々は、彼女たちの共通の関心事である
『今日の趙さまのファッションチェック』
などにそつなく脱線してゆくのだった。
そのころ、公叔邸の暖炉の部屋では邸の主である彼が先生と長椅子に並んで腰かけて短く沈黙していた。
「おわってみれば、エイプリルフールなのであろうがな」
公叔と呼ばれる彼は、温厚なまなざしを白いかおばせに注ぎ、平常心を装っていた。
「……申し訳、ございません」
悄然とする先生のほそい肩を抱き寄せて
「謝ることはない。用心にこしたことはないのだぞ。吉先生はご細心なのだ。従っておいたほうがよい」
まるで、いたいの飛んで行け、のようにその肩を優しく撫でさすって温める。
「でも、どこへ参りましたら……」
「そうじゃな」
彼の手にあるのは、封緘された分厚い封筒をホチキス止めしたA3用紙両面印刷の健康診断結果票である。
先生の複姓と名の下の大きな欄に
総合判定:F (要精密検査)
と、無情な文字が黒黒としている。
蒲柳の質たる先生の健康診断の結果は、年齢相応とはゆかない。
まず、筆頭にあがる身長と体重とから自動的にはじき出されるBMI指数という項目で基準値を下回って、仮にほかの数値がすべてA判定であっても総合判定には
C (要観察)
の点がついてしまうことは毎年のお約束である。
まだCならば見慣れている。DでもEでもなく、一足飛びにFがついたのが彼にとっては内心不安だった。
だというのに、取り越し苦労はしない性質の彼の理性は事務的に封筒の裏と表をあらためる。
循環器内科主治医殿
と大書してあるので
(おお……。何という破壊力じゃ。儂の血の巡りの方に問題が起きそうじゃ)
などと理性とは別に地味に血圧を上げながらも
「よしよし、吉先生によい病院を紹介していただこう。新しい検査機器を備えて、気が利くナースが居て、敏腕のドクターがおって、待たされぬところを、じゃ」
その場で懐から携帯電話を取り出し、電源を入れて親しく吉のクリニックの番号を押したのである。
劉家のホームドクターの吉は、毎年はじめの往診日に、簡易な健康診断をおこなう。
もちろん、働き盛りの者たちには人間ドックの受診をすすめるので、実質的には先生と子息のふたりぶんだけの健康診断である。
その日、先生の白い胸の音を聴いていた吉は、なにやら普段より入念だった。
この白い受診者は勘がいい。
すでに何か気づかれたとうすうす分かった上で
「そういえば、去年のクリスマスの奏楽堂のコンサートですか。いや、それは盛況だったそうで」
「はい。おかげさまで」
先生は世間話が苦手なのだが、時おり絶妙な鍼を打ってくれる吉の左手とともに、この医師の人柄も信頼しており、曖昧な答えしか口に出せない自分を許してくれる安心感に微笑みを刷いた。
余談ながら、鍼を持っている手で鍼を打つ如き者は達人とは言えない。
「娘がですな、どうせ周郎めあてかとおもいきや、どうも、歌い姫のほうが好きらしく、しばらく鼻歌があの歌ばかりでして。毎日ですよ、あれを。いい加減覚えてしまいそうでしたよ」
「えー、検体はいつもの検査機関に送るとして……。失礼、もう一度聴かせていただけますか」
聴診器を耳に装して、掌で温めなおした金属面を先生のほうへむけた。
約37度の丸いぬくもりが白い肌に添う。
(ううむ。やはり微かに。……収縮時か)
名医が耳を澄ます表情が、はるか昔の作曲家の意図を五線紙の上に見いだそうとする演奏家を彷彿とさせ
(たとえば……。カザルスとか)
と、本来は自分の心音のことであろうというのに、ドクターと伝説のチェリストを重ね合わせて先ほどよりもずっとリラックスしている。
医者は、他愛ない世間話でもたらしたリラックスだと解釈したが、実は先生の海馬をチェロの調べが巡ったがゆえである。
(子供の頃の受診の記憶は。麻疹、水疱瘡、中耳炎以外はもうなかろうし)
心雑音のゆえんをいくつか想定する。
初診の朝の次の往診から、既往症については聞き取りを重ねて綿密なカルテをつくりあげてきている。
それによれば、とくに中耳炎についての記憶がはっきりとしている。五歳のときらしい。
右耳が痛くなり、母と耳鼻科へ行き、耳鼻科医のすすめでその機会に血液型も調べたという逸話も、吉はあざやかに覚えている。
「大丈夫よ。耳のお掃除とおんなじ風よ」
と、母に騙されたふりをしてその膝を枕にして横になり、耳たぶに揮発するカット綿の感触を覚えて、一歳の頃に経験した異様な雰囲気を一瞬だけ思い出す。
それは、集団予防接種の断片的な記憶らしいのだが、幼児の先生を怖がらせてあまりある経験だった。
どうして医者と注射針は不可分なのか、そして注射針はどうしてあんなに痛いのか、もやもやをマーブル模様にしていることを押し隠して大人しく痛みを待っていると、母が手を握ってくれたことを先生は克明に記憶している。
(いいの……?怖くても。おとこの子でも)
あのまま、父と母と、すでに長兄らしさを備えつつあった兄と、自由で茶目っ気にあふれた弟と、五人で暮らしていたなら、また今とは違った人生だったのかもしれない。
母の思い出まではドクターには告げていないが、先生にとって耳鼻科というと中耳炎よりも血液型という記憶なのである。
吉は電子カルテを念のためスクロールする。
おもにアレルギー関係のことが出てくるのは水鏡老師と暮らし始めた15歳の頃からで、それ以前とくに幼児期を聞くのは酷だ。
(乳児期の心隔欠損の名残……であっても、なかったとしても)
なぜなら先生は物心ついたときには一家離散だったからであり、なぜ一家が離散せざるを得なかったのか詳しい経緯も知らないからである。
この繊細な白い受診者の心を騒がせないことのほうを瞬時に選ぶ吉はさすがである。
「おそらく緊急は要しません。……次回、紹介状を持参しますので、桃が咲く頃にでも念のため精密検査をお薦めします」
「精密検査、ですか」
先生のかおばせを微かな怯えが走ったのを見逃さない。
「大丈夫。おそらくエコーと心電図だけで、痛い検査はありませんよ。中医としては、あまり検査機器に頼りたくはありませんが」
さすがにここへ検査器機を搬入するのは現実的ではないので、外の病院に行っても何も怖いことはないと、吉は請け合ったのだった。
「というわけでな、お前のとこを口頭でご紹介するから、よろしくな」
吉先生は小さなダイニングテーブルで娘の手料理を食べながらそう告げた。
「ちょっと。食べるか話すかにしてよ。行儀悪い」
ナースの吉大姐は相変わらず下品な父に舌打ちした。
「時は金なり。早メシは芸のうち」
父親の食べこぼしに眉を顰めながら
「はいはい、オッケー。院長診察の日で、すいてる日チェックね」
吉大姐はダイニングテーブルを離れようとした。
「ホゥ。わかっとるではないか」
「長年、土日返上で老親フォローの苦労は伊達にしてないわよ」
平日は病院勤務、うち一日は錦官城との連携によるナース派遣サービス、土日は吉クリニックで父を手伝う大姐は多忙で、給料を使う暇もなく金は貯まるばかりである。
「何が苦労か」
時間も金もなく駆け続けてきた世代の吉には娘の苦労などわからない。
「いつかの、先生のアレルギーの件お忘れなく。アタシの手柄ですから」
腰に手をあてて得意げに仁王立ちである。
誰に似たのか。少なくとも母には似ていない。
一日の疲れが増す。
娘のそのポーズも言葉づかいも口調もいちいち癇に障る。
「お前、もうちょっと娘らしい優しい物言いはできんのかッ。それでよくナースが勤まるもんだな」
「あら。患者さんには優しいわよ。それに、娘らしいってなによ。古っ。くだらない」
「なにおぅ小癪な! いったい誰のおかげで……!」
言い争いそうになったときに吉は既に空腹が癒えており、口腔にはすでに味わうゆとりが生まれていた。
「……この西紅柿鶏蛋は、美味い」
神妙にぽつりとこぼされ、吉大姐の威勢も半減する。
「そりゃ……当り前じゃない。……お母様の味だもん」
ふたりして、しんみりとなる。
ここに居ない妻に、母に、口げんかの仲裁をされたことは明らかだった。
それが分からないほど互いに憎みあったりしていない。
「わかった。明日、診療予約見てメールする。食べ終わったら食器洗い機に入れといてよね」
「めんどくさい」
「何よ、健常者でしょ。洗剤入れてスイッチ押すだけでしょ」
そう怒鳴りながらも、眠る前、シンクに置きっぱなしの食器を見ても今夜はなるべく怒るまいと、吉大姐は氷雪奇縁のヒット曲をわざと上機嫌に口ずさんで自室へ消えた。
(Let it go とは、あの子らしいな)
吉は無言で愛妻の味をもう一口含んだ。
もちろん先生の心雑音は誤診ではなく、機能性心雑音と分類されている無害なものだった。
だというのに
「とはいえ、なるべく気をつけねば」
と、検査結果を得てからのほうが慎重になる彼に対して先生は
「何ともなかったのでございます。今まで通り、図書館にも参ります。兄の家にも、お散歩も」
と微笑んでみせる。
「どれ、儂も診察してみよう」
薄い寝巻きの上から巨きな耳をあてて聞き入ってみせた。
それしきのことなのに、初めてのことなので、先生の鼓動は急に早くなる。
先生が無言で固くなってしまっているので
(違う、プレイなどではないぞ、断じて)
と、慌てて無意味な咳払いをして
「ようわからんな」
口を濁さざるをえなかった。
心電図はもう一週間も前に終えたはずなのに、先生の左胸のあたりには四ヶ所も検査器具の吸い痕が残っている。
彼はひょんなことでそれを知ってしまっていた。
その痕が消えるまで、先生が気づきもしていない寝台の上での「今まで通り」を慎もうと思っているのだ。
(誰じゃ。実にけしからんではないか)
誰もなにも、心電図のただの吸盤である。
彼は、人間ドックで今後みかけるであろう心電図の器機と、たびたびどう和解したらよいだろうかと思うのだった。
なお、強いて誰かというならば、七星壇病院の検査室で吸盤を取り扱ったのは、器用な若い研修医である。