好雲天府國 (こううんてんぷのくに)

2016/06/01

うをとみづ3世紀SS 三世紀ss

 今上の叔父と呼ばれてはや廿有余年をかぞえる彼は、天府の国の初夏をわたる風に柳が揺るる蓮池の亭子を素通りして、北の廊へ向かっていた。


 ここは、黄色い砂塵が舞いがちで乾燥していた故郷とも荊襄とも違い、一年中涙ぐんだような潤いに満ちていて、緑が映える。
 錦江のほとりの柳の風情など格別で、我が龍が
「水の軍師」
とも呼ばれることに因むようにも思えてまことに似つかわしい。


 くわえて彼が密かに嬉しいのは、曇りがちのために我が龍が天文を観に行ってしまうことが止むを得ず少なくなっていることである。


 これを補うために筮などに時間を割いているようではあるのだが、彼の見るところ龍は筮竹を使った占いよりも天文を観る時間の方が長いようなので、やはり益州の雲は彼に味方していると言えるかもしれない。


 風わたるある日の事である。
 
 衣も単衣に更わり、我が龍の袖や裾さばきが軽やかに見えることに眸を楽しませながら、午后の政務の合間の茶を屋外の亭子で喫しようと我が龍を誘うと、龍は珍しく
「わが君」
 と彼に呼びかけた。
 相も変わらずいつでも礼儀正しく両袖を揃えて拱手する。まるで陛下という言葉を用いる時に必ず礼を取るがごときである。


 軍議ではいざしらず、龍は案外に寡黙なので
「のう、孔明」
 と、彼が語りかけるのを待っているのが常であるので彼は機嫌ななめならず
「何じゃな」
 この世で一番の智者の白皙のまばゆさに眸を洗いながら応じた。


「……申し上げるべきか否か」
 何と言おうか迷い、愛用の羽扇を口許に寄せる仕草に、兵馬のことや国政についての献策ではないことを察すると
「おお、そうか」
 彼は思い当ったので膝を打った。


 曇り気味の土地柄ということは、自然、つねに湿気をおびているということに通じる。
 忙中の閑の日がちょうど、普段に比して程よく乾燥していたならば守蔵室を見ておきたいと、いつぞやの朝粥の折に彼は我が龍に言うたことがある。そのことであろう。
 龍はいつでも、漢室中興のために優先順位が高いことから処そうとするので、守蔵室を見に行くのは他日でも構わぬため言い淀んだのかもしれなかった。
 
「守蔵室にゆくに向いておる日であったか」
「……おおせの通りでございます」
「ならばゆこうぞ」
 彼は長い腕を伸べて我が龍の手をとるという既に習慣化した動作を無意識におこないながら左右に
「今日は守蔵室に参る。茶は餐の前に執る政務の合間に、次の間でな」
と、そのあと我が龍に茶を摂らせる段取りまで即座に済ませて、かろやかに廊へ向かったのだった。


 襄陽の守蔵室も大きく立派であったが、成都の守蔵室には更に風格がある。
 棚は黒光りして守蔵室が耐えてきた歳月を黙然と示し、戦乱が少なかったためか典籍の蔵には稀覯書も多いらしい。
 とは、道すがら龍が彼に語った内容のなかで彼の巨きな耳に最も残ったことである。
 だというのに、このことを彼は聞き流した風に話題にのぼらせ得なかった理由は、我が龍にそれら稀覯書を耽読する暇をいつになったら与えることができるだろうかという一点に盡きる。


 守蔵室の若い門番は、すずしい白皙と羽の扇を遠目に見ただけで彼らの軍師だと悟り、すでに警戒を解いて
(今日は、耳のでかいおっさんを連れていなさるなぁ)
 軍師が目配せして扇をかろく煽いで通る旨を示したので遮りもせず、おっさんと軍師とを黙って通した。


 だが
(待てよ? 耳の大きい?)
 と思い当って、もしや今のおっさんこそが主公なのではないかと思い至り
(お通りの時にご挨拶もしなかったじゃねえか俺。お帰りの時どうしよう……)
 微動だにせずに普段通りに立ち尽くしているように見え、じつは背に冷や汗を浮かべてしまって、彼らふたりが手を携えて君臣らしからぬ風情で歩いてきたことを確かに見ていたはずなのに、一瞬のうちに忘れ去っているのだった。


 扉を開けて中へ入ると、多くの者どもが無言で仕事にいそしんでいるのがわかる。筆を休めたり墨を磨りなおす微かな音や、に竹が触れあう硬質な音など、知的な物音に満ちている。


 扉近くにいつも座って出入りを記録している若い吏が
「これは軍師様」
 と立ち上がって拱手の礼をとったので、龍は小聲で指示した。
「博士を召せ」
「かしこまりました」


 道すがら、彼は守蔵室の皆の務めを仰々しく邪魔する気はないことを聞かされていたので、ここを統べる博士にだけ断りを入れようと思ったのだ。
 
 若い者、壮年の者、みな慣れた様子で机に向かい、あるいは筆写し、あるいは竹簡を補修し、精勤している。
 その向こうで、若い吏から報告を受けたとみえる白髪交じりの気難しそうな博士が、歳に似合わぬ機敏さでこちらへ急いでやってくる。彼らの軍師が典籍ではなく博士に用があるとは、何か問題でも発生したと思ったのかも知れなかった。


「これは、軍師さま……」
 ずっと年若い龍に対して恭しく拱手して頭を下げようとする。
「博士。急にすまぬな」
「あっ……、主公」


 彼が天府の国の首座に収まったあと、益州の要職にある者は一度面会しているので、博士は彼を知っていた。
 跪こうとするので、彼はいち早く長い腕を伸べて博士の肘のあたりをとらえて制すると、龍に倣うように囁いた。
「いや、ちと見ておこうと寄っただけじゃ。皆はそのまま。邪魔しとうない」
「は、しかし」
「よいのだ。見よ。皆なんと勤勉なことか。頼もしい」


 彼が眸を細めて褒めるので、博士はひそかに鼻が高い。
 そのうえ、益州の主が親しく守蔵室を訪れるなどということは、祖父の代から聞いたこともなかった。ということは、このほかの部署も閑を捻出しては見て回っているのだろうことに思いが及び
(もしかしたら、我らはよき主公を得たということなのかもしれぬ)
 ようやく今後の益州に明るさを感じるのであった。


 守蔵室の壁は二重に分厚く構え、床は高く設えてあり、火災と湿気への用心が容易に察せられる。
 我が龍と手を携えて短い階を昇って守蔵室に入ると、ひんやりとした。
 中に誰か居るかと思ったが、人の気配はなかった。守蔵室の環境をなるべく一定に保つために、不急不要の出入りは制限するように博士が差配しているらしい。


 どんな工夫なのか窓らしきものは見当たらないというのに、屋外のあかりが間接的に守蔵室へ注ぐ工夫がしてあるようで、ほんのりと明るい。昼間ならば典籍や宝物を検めるのに差支えない。
 
 彼は、重たげな古い鼎や香炉などの青銅器が並ぶ蔵は一瞥するだけで奥へと進んだ。龍は、彼が説明を求めないので三歩ほど下がって黙って従ってゆく。
 典籍の棚にさしかかり、竹簡をちょっと取り出しては広げてまた戻したりしてゆっくり巡っていると、隅のほうに二階へ上がる梯子を認めた。


(いや、これは参った)
 彼は昔日の荊州で、亡き琦公子の保身のために我が龍を罠に嵌めたことがあった。稀覯書の存在を仄めかして龍の好学を利用し言葉巧みに公子の邸の梯子の上の部屋に誘い出して献策を逼らせたので、それを思い出していささかばつが悪い。新野の蔵は守蔵室と呼べぬほどに小さく、襄陽の守蔵室は平屋だったのでいずれにも梯子はなかった。


 龍はここの梯子など見慣れてしまい、ただの背景にしか見えていないので、彼が特別な感情を絡めてこの梯子の存在を意識しているとまでは気づかないでいる。


 二人してこの梯子を見ねばならぬとなると、その思い出を温めて改めて詫びるべきだと彼が観念していると、視界にぬっと現れいでてこちらを窺うものがある。


「孔明、これへ」
 彼は我が龍を驚かせぬように数歩を後ずさりしながら柔らかに手を引いていざなった。
「ちと尋ねるがの」
 てっきり、守蔵室についての薀蓄を求めるかとおもいきや
「そちは、例の長いもののほかにじゃ。たとえば足の多いものなども見ぬ方がよいかの」


 例の長いものとは蛇のことで、我が龍は生きている蛇がっている姿が苦手である。それを婉曲に指すために彼は「例の長いもの」という言い方をする。
「百足でもおりますか」
「いや、蜘蛛がな。そこにな」
「蜘蛛は益虫でございますれば」


 と応じたというのに、その応えを巨きな耳に挟みながら我が龍の半身を大きな片袖でおっとりと庇ってから、三歩向こうの書架の縁に張りついている蜘蛛を彼は指し示した。彼の掌に八本の指をくわえた如くに大きな蜘蛛である。


 眸をめぐらせて蜘蛛の姿を認めたらしい我が龍の細い肩が、片腕のなかで微かに跳ねたのに乗じて、彼はもう半歩ぶん我が龍を引き寄せた。
梁塵しずまり冷涼として時を止めたかのような蔵の中で、聞き慣れた我が龍の黒髪の薫りは妙にうつつの世を思わせた。
 間近く見る我が龍の横顔は指で輪郭を辿りたいほど端正で、白玉の細工に似た耳は唇に含みたいほど清らかで、彼は息さえ呑んで眸を奪われる。


「……驚いたか」
「大きいので驚きました」
「儂もじゃ」
 怖いので驚いたのではないと、わざわざ言うところに可愛げを感じて、彼は笑い交じりに同意してみせる。


「捕えまするか」
「いや、ここのぬしかも知れぬではないか。書を齧るわけでもなし。毒がないならば、このまま棲まわせておけ」
「博士にも訊ねておきましょう」
「そうせよ」


 龍は執務の合間に何度もこの守蔵室を訪れているのに、ぬしに会ったことはなかった。
(ご挨拶に出てきたのなら。やはり「ぬし」なのか)
 虫まで誰が仁君かを弁えるなど、天下第一品の守蔵室と褒めてよい気がした。


 昼下がりの守蔵室に二人きりで寄り添うていると
(あの折、わが君は続いて何とおおせあそばすお積りだったのだろうか)
 龍は十年ほど前の襄陽の守蔵室での出来事をあざやかに思い出す。あれは夕暮れであった。

 いま我が仁君は齢を重ねて百も半ば過ぎというのに、懐はいよいよ深く徳はいよいよ高く、斉の桓公など及びもつかぬ器量に、いつまでも側近くに仕えていたい気持ちは年年歳歳に募るばかりである。目尻にたたえる笑い皺が数を加えてゆくことすら慕わしい。


 蜘蛛は、二人にしばしの抱擁を与えると、じりじりと書架の側面をのぼってゆき、いずこかへ消えた。
 それでも彼は未練であったので
「参ろう」
 と言いながら長い腕をほどくとまた我が龍の手を引き、いま少し奥へと歩をすすめる。


「おお、これも随分と古いもののようじゃのう」
 彼は、木製の箱の中に、紐を失いばらばらになっている竹簡の束をみつけ、一本をとりあげ判読しようと試みた。篆書であった。
「秦の頃のものかもしれませぬ」
「ほう」
 彼は興味を示した。
 これが竹林の竹だった日があり、伐られた日があり、細く削がれた日があり、そして文字を記された日がある。誰の手を経てきたのかはわからぬが、そのあかしが今たしかに彼の手の上にある。
「おもえば、高祖のまえに天下を統一しおおせたのは、秦始皇と言えよう。会うてみたかったのう」


 高祖と言うたときに、その末裔の彼は袖を揃えて拱手をかかげて敬意を示した。
 彼が秦始皇に好感をいだいているのではなく、天下統一を果たした者の例を直に見てみたかったという意味で言っていることはあきらかだった。
「統一を果たし得ることと、万民を安んじることとは同義ではなく、難事業でございます」
「いかにもな」
 龍は、秦始皇も高祖も為し得なかったことを彼ならばできると信じている。だが、高祖に不敬であろうと思い、これ以上は言わない。
 これだけでは何の意味も成しはしない一本の竹簡の断簡に、あたたかな眼差しをそそぎ惜しむ彼の手を、龍は憧れに似た想いでひたと見詰めた。


「……いつの頃の誰の普請でございましょうか。わたくしが古典籍であったならば、ここの守蔵室におさまりたきものでございます」
「ほほう。では儂も古典籍ならば、そちの隣にな」
「お戯れを」


 そう言いながら、典籍というものになってしまったなら、君も臣も年齢も隔てなく、とこしえに共にあるというありかたができるのかもしれず、案外に冗談で流すべき思い付きでもないかもしれぬと、彼は今の会話を寛き胸に納めることにして、そっと竹簡を元に戻した。


 大漢の名宰相である蕭相国が普請させた未央宮さえ今は世になく、十一功臣を讃えたという麒麟閣も虚しく礎石を残すのみである。


 彼は、おのれが名君であったと評され得ずとも、我が龍のみは漢室中興の勲臣として後の史書に記されてこの守蔵室にも眠り、彼が朝に夕に慈しみ呼び慣わしている名が末代まで伝わり輝くことを願わずにはいられなかった。



(了)