遮光カーテンの裾から洩れいづる遠慮がちな光を感じて、彼は目覚めた。
隣の寝姿の黒髪の先端とその白晳とをあわせ見ると、息も僅かに眠っている様子がようやく伝わってきたので、目を覚まさぬように髪の表面だけを注意深く指先で撫でてから、彼はごそごそと起き出でた。
(何であったかな。重要なことがあったはず。……しかも、儂の苦手分野のだ)
頭の中を巡るのは昨夜に綿綿と交わした情の余韻ばかりで、つい頬が緩み少しぼんやりとしてしまったのだが
(いかんいかん。その事の前だ。その事の)
と、おのれを励ましながらもやはり思い出せないのでそっと起き出でて、裏返ったタオル地のスリッパを爪先で器用に元通りに返して履き、その事の時に適当に脱ぎ捨ててしまった衣類を拾って纏い、常温に戻すためにテーブルに置いておいたミネラルウォーターのボトルを掴み、電気ケトルを取り上げてバスルームへ向かう。
ダブルシンクの広々とした大理石の上の端の方へケトルと水のボトルを置いて、先に歯磨きや洗面に取り掛かった。あとでポットを取りに行けばよさそうなものだが、疲れて眠っていても耳敏い先生のために、扉の開閉音を何度も立てたくないのだ。
(儂も、老けたものだのう)
邸よりも明るく広い洗面所の贅沢な大きな鏡は、彼の加齢を容赦なく映しだす。しかも寝起きであるから実年齢よりも更に三年ぶんは老けて見える気さえする。
鏡の中の自分を見ると、昨夜の「その事」が白日の下で営むことでなくてまだよかったと己を慰めねば救われぬような気分になり、それをとりあえず水で洗い流すことにした。
(……歳月は残酷なものだ。あと十年もせぬうちに、半死の白頭翁の出来上がりじゃ)
いま寝台に臥する人とは、永遠に廿年の歳月を縮めることはできない。
その現実を変えることはできぬ以上は先生が望むかぎり連れ添うてゆくまでだと思い直して、分厚いタオルで顔と気おくれとを拭った。
ミネラルウォーターのボトルキャップを開封して電気ケトルに注ぎ、残りの200mlほどを一気飲みして、ケトルを抱えてバスルームを出る。
やや重みを増した電気ケトルを注意深くセットし、電源は入れない。
腕時計を取り上げて嵌めながら文字盤を見れば九時すぎである。
(では、十時頃だな)
と、考えるまでもなく今日の大まかなプランを思いえがき、液晶テレビの下の薄い引き出しからインフォメーションを取り出す。
今の時代、テレビを点ければホーム画面がホテルの案内になっているものだが、彼は紙媒体の方が慣れているし、電子機器の微かな起動音さえ先生の白い耳に障り易いことを彼は知っている。アナログな音の方が安全なのだ。
彼は遮光カーテンの端を捲って自然が恵むあかりを得ると、インフォメーションのファイルを捲る。英語、中国語、日本語、フランス語の約款につづいて、写真入りのサービス案内が続く。
ぱらぱらと眼を通して目的を達してからようやく天をあおぐと薄曇りであったのに、彼がカーテンを元通りにして室内に戻ると、急に日が差し込んできて、青天の兆しが見えるのだった。
今日は天気が良かったならば街歩きにでもゆこうかという程度で、特に予約してある店があるわけでもなく、基本的にノープランである。
彼はノープランの旅のほうが好みで、しかもそれは繊細な先生を伴うときには更に好都合なのだ。例えばこういう朝を迎えた一日については、どんなプランよりも贅沢で適切といえる。
9時30分ごろに彼は電気ケトルの電源を押した。
電子音以外で、だんだんと大きくなる種類のアナログ音として、湯が湧く音は先生にとって心地よい目覚ましのひとつなのである。
沸騰後に自動的に電源が落ちる前に、格子の向こうのベッドの中の先生は目覚めた様子を見せた。
「起きたか。具合はどうじゃ」
先生は、病気でもなかったのに彼がそのように問う理由に思い当って急に視線を逸らして
「……はい……おはようございます」
としか答えられなくなる。この問いは「どこか痛まぬか」という意味である以上、痛んだならどこが痛むのかは限られてくる。とても痛くで歩けぬならば、バスルームまで抱いて運ぼうという意味まで含んでいるのだ。
「おはよう。あいにく、曇りのようだが」
彼は、ソファの背にかかっている先生の愛用の薄手のガウンと衣類とを手にして、ベッドを出るに出られないでいる先生の羽毛布団の上に置き、先生に背を向けて胡桃材の格子の向こうのリビングを横切って遠ざかり、遮光カーテンをゆっくりとした動作で開けて、掃出し窓を滑らせバルコニーへ出た。先生が自分の體の具合を確認しながらガウンの袖に腕を通すに十分なゆとりを与えるためである。
「おや。先ほどは曇りであったが」
実際に天気が好転していたわけではあるが、彼は天気に気を取られた風を装って、先生に時間を与えつづける。
「あの。お湯をいただいて参ります」
「急ぐことはない。腹の虫は豆で宥める」
歩いて窓辺まで来られた先生に安心してから、彼の空腹を心配して先生が慌てないように冗談めかして言い添えて腹を平手で叩き、笑顔を向けた。
彼らは部屋で酒を飲まないので、つまみ用に置いてあるナッツ類は開封されていないのだ。
「はい」
先生が僅かに寝乱れを髪の端に漂わせて淡く頷き、モノトーンのガウンが映える膚を午前中の自然光の中で見せるなど邸ではないことで、早速に目の毒である。
などと彼が思っていることを知る由もなく、先生はクロークから着替えを取り出してバスルームに消えた。
先生はバスローブを脱いでドア裏のフックにかけると、こわごわと鏡を振り返った。
このような朝、背にだけ昨夜の痕跡が生々しく残っているのだ。彼以外の誰が見るわけでもないが、いつなんどき聴診器を当てられてもおかしくない自分の體のことを考えると、やはり知っておきたいので鏡を見ることにしている。
(……あ。何故)
予想していた跡はなかった。省みれば、いつぞや心臓に異音が見つかって精密検査を受けた頃からか、ありていに言って一年以上にわたって房事はなかった。
しかしそれが、彼の加齢を原因とする欲望の減退と決める証拠とするには淡すぎる。
なぜなら昨夜は、以前に外国で過ごしたあの一夜ほどではなかったとはいえ、烈しさを秘めながら幾度も求められ、長い驟雨はせめて白菊の慎み深く育ちの良い花弁を損なうまいと意図的にたびたび雨脚を弱める風さえあったからだった。
驟雨は爪先から額だけではなく踵から項まで幾度も襲い、痕跡が残る弾みはいくらでもあり得たといえる。
しかも初めての夜と同じく、今でも彼の感触が背に甦るほどに、かれこれと盡くされ、そして先生の體のなかで彼が知らぬところなどどこにもないほどに潤され施され促され与えられを繰り返した、そのような一夜のあとに一昨日と同じ背中はありえなかった。今までならば。
跡を残すことに飽きたのか、跡を残したいほど執着しなくなったのか、それは彼に問うてみねばわからず問えようはずもなかったが、このようなことに疎い先生はこのひとつの変化をどう捉えるべきなのか頭を悩まさずにはいられない。
先生がバスルームで頭脳までも湯気で曇っている頃、彼は思い出したいことをまだ思い出せずにいた。
クロークを開けてみはしたものの、クロークの中にも答えはなかった。
急に洋服に着替えるのも寛げない気がして、朝ヨガ参加者用に用意されているダブルガーゼのヨガウェアを着てみることにして袖を通しながら考えるが、やはり何もよぎらない。
ゆったり心地よい木綿の肌ざわりがすぐにしっくりと馴染むことを心地よく感じて、先生もこれを持って行ったかすぐ確認の視線を走らせてしまうところに、彼の無意識の過保護に似た思いは既に日常に浸透していることが漂っている。
昨夜、その事の前に腰かけていたソファにその事の前に腰かけていた通りに腰かけてみるや
(おお、そうであった)
腰かけた瞬間に彼は記憶の彼方から思いだすべきことを手繰り寄せて立ち上がり、電話の受話器を取り上げて3番を押した。
「おはようございます。劉大人。フロントでございます」
「お早う。厨房の手があいてからでよいのだが、ルームサービスを頼みたい」
「もちろんでございます。お部屋にメニューのご用意がございますが、ご注文はお決まりですか」
「果物の盛り合わせと、ベジタリアンミールを、一つずつな」
「かしこまりました。フルーツミールを一名様分、ベジタリアンミールを一名様分でございますね」
「造作をかけるのう」
「滅相もございません。ご希望のお時間はございますか」
「そうか。では、十時頃に願いたい。過ぎても構わん」
「承りました」
「それからな、ちと、別件で頼みごとがな」(つづく)
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