彼は、龍が奏でる琴の音色に耳を傾け、心を洗うていた。
雨が上がってからそぞろ歩きながら、龐林の館へ戻り、衣を改めて夜の餐に与った後、久方ぶりに琴の聲を龍に所望したのである。
「……どのような曲を、弾じましょう」
龍の問いかけに、彼はおっとりと応じる。
「そうじゃな。……懐かしいような、そのような」
「心得ました」
龍が弾じ始めたのは、あの日の調べであった。
隆中の庵に、龍を三度訪い、話し込んでその日は暮れてしまったので、思いがけず、一夜の宿も請うことになったその日の夜に、龍が弾じていたのは、この曲であった
あの日の夜と今宵とは、異なるところが多いと言うのに、なぜこの曲はあの時と同様に、それともあの時に増して、これほどに心に沁み渡るのであろうか。
灯火は倹約させているため、あかあかとはゆかぬが、仄めく燭が密やかな趣を漂わせ、灯火の瞬きに龍の黒髪は照り映え、彼は葷酒してもいないというのに、軽く酔うた心地を覚える。
彼は目を閉じて音色に聞き入った。
この曲は、いずこかの高い山の頂に降り積もった白雪が、春になりてようよう溶けいでて小さな雫を生み、それが滴り集まり細き一条の流れとなって、深山の渓谷まで至るが如き風情が浮かぶような調べである。
彼はこの曲を聴いていると、今が乱世であることや、己の年齢や、皇叔であり襄陽の主である立場や、これより天下を三分せんという王道を歩む覚悟、あるいは野心を抱いていることさえ忘れている。
この曲を耳にし、心に映る情景に身を委ね、渓流のほとりまでそぞろ歩き来たときに、若き頃の母に、瓜二つの婦人を対岸に見た。
彼は薄目を開けて、自分の膝の前の床板を見るともなくぼんやりとした。
その婦人は、彼の若き頃の母親に瓜二つの女は、昼間茶店を出るときに会った婦人だった。
今日は老人たちが平和に棋に興じる様と、小さな子供が安心して駄々をこねる様を見ただけで、彼はよしとすることにした。
乱世においても民たちが、このような日常の一齣を持って生きられるのであれば、まだ救いがある。
茶店の栗で小腹を満たした後、向こうの側の二人連れに倣って、抄手や燙青菜などを注文し、君臣で仲良く分け合うという、お忍びの醍醐味も味わった。
このニ階では、少年の方が昼寝を始めてしまい、親方と呼ばれた男は
「しょうがねぇなぁ」
と言いながら、憎からぬ風情で手酌をやりながら、少年のそばに付き添っているほのぼのとした情景を見、心は和む。
雨が降り出した後、出店を畳んで散ってしまった民たちは戻ってくる気配がなかった。
この辺りの雨足の様子を熟知しているであろうし、もしかしたら夕刻にまた降り出しかねぬのかも知れない。
ニ階の客の様子を見ようと、店の者が階段を上ってくる音がしたので、彼は勘定を頼もうと呼びかけた。
「はい、ただいま」
予想に反して女の声がした。
入店するときに応対し、先ほどまで世話をしてくれていた若者はどうしたのであろうか。昼餉の刻限で、婦人と交替なのかもしれない。
女が
「お釣りをお持ちしますね」
と言うので
「いやいや、取っておけ。良き眺めで、ゆるりとできた。茶も、栗も美味かったぞ」
と、彼が鷹揚な様子を見せると
「まぁなんて気風の良い旦那様でしょう。ありがとうございます」
婦人は銀を押し頂いた。
「あぁ、でもちょっとお待ちくださいまし」
婦人が思案顔を見せたその時
(母上……!?)
彼女が、彼の母の若い頃に瓜二つであることに気づき、衝撃を受けた。
婦人は機敏に踊り場辺りへ小走りしてゆき、紅色の小さな巾着袋を二つ持って戻ってきた。
「旅の方とお見受けしました。同じ銘柄の茶葉を少しですが、客桟でお使いください」
「……これは……お心遣い、傷みいる……」
「いえいえ、お代は充分頂戴しております。……雨は上がりましたけれど、お足元にお気をつけて、良い旅をどうぞ。棗陽にお越しの時は、ぜひまたお越しください。お待ちしております」
彼女の関心は、若く端正な姿をした龍へではなく、勘定を持った彼のほうに向いていた。婦人はにこやかな笑顔で彼ら君臣を送り出した。
彼の巨きな両耳の奥には、茶店を出るとき「お気をつけて」「お待ちしています」と、若き母と同じ顔が発した言葉がやけに谺していた。
その谺は、ある記憶を湧き上がらせた。
黄巾の賊軍を鎮めるために兵を募る高札に招かれ、義兄弟とともに参陣するために実家を離れた、あの日あの時の記憶だった。
あの時、茶店の婦女が言うたような言葉を、おそらく彼は母から聞きたかったに相違ない。
三十年も後の今、彼はようやく自分の心の片隅にあったささやかな願いと、そのささやかな願いが叶わなかったことへの悲しみに気づかされた。
あの出立の日、母から聞いた言葉は「気をつけて」「待っていますよ」ではなかった。
母の言った言葉は、こうであった。
彼の大きな両耳の深き奥底に、今でも刻まれている。
「帝をお助けし、漢室を再興するまでは、里心などを抱いてはなりません。その日まで、母は亡きものと思い励みなさい」
龍は、いずちへ行くにも荷に含めて伴っている愛琴が、今宵は妙に咽び泣く様子に戸惑っていた。
かと言うて、今宵は歌いたくないという風情はなく、むしろ泣きながら歌いたいというが如きである。
琴と一体となり、名曲の境地に逍遥していると、龍はある光景を覚えた。
雲霧たなびく仙境で、龍は琴を弾じており、目の前には慕わしい主君である彼の後ろ姿がある。
彼は白く霞んだ向こうの何かを見ており、その背には悲しみが滲み溢れている。
龍は途端に、愛琴の音色に籠る涙の所以を理解した。
(十)につづく